今回のライターリレー連載のアンカー記事となりました。
私が、神戸市西区の神出病院で起きた暴行事件をうけ、
この連載をバリアフリーチャレンジのライター達と一緒に取り組みたいと思い立った動機は、二つあります。

🔹ライター達が、この事件にどのような印象をもち、
どのように受け止めている(受け止めていく)のかということを知りたいと強く感じたので、
各ライターが等身大の言葉でこの事件について語り、発信してほしいと思ったのです。

🔹我々は日々、命や人権にかかわる多くの報道に触れていますが、
この事件を時間の流れに埋もれさせず、
起きたことの意味を考えとらえる行動を取っていきたいと考えているからです。

🔹エンパワメントとは

今や医療福祉業界でも「エンパワメント」という言葉は当たりまえのように使われています。
エンパワメントという言葉は、アメリカで起こった公民権運動に発し、
1980年代の女性の権利獲得運動を経て広がりました。
ビジネスでは「自立性促進」「権限移譲」「能力促進」という意味合いで用いられています。
障害福祉分野では、本人が本来持つ能力や権限を発揮することを目指す考え方とされ、
本人の意思決定支援を支えるものとして用いられています。

🔹相互エンパワメントとは

私が対人援助の実践の中で大好きで最も大事にしている言葉は、「相互エンパワメント」です。
支援者が本人に対してエンパワメントするという形は、
する⇔されるという構造をつくりあげてしまうので好きになれませんでした。
「相互エンパワメント」という言葉を知り、私はその意味を
相互に影響を与えながら豊かな生を追求していく力を高めあう
」と理解しています。
もっと平易に表現するならば、「相手と私の今を純粋に喜び合う」ということです。

管理され統制された支援でパターナリズム(定型支援)に陥ることのないようにし、
「本人とともに支援者もエンパワメントされよう!」を目指しています。

私がエンパワメントされる瞬間

私は、20年以上福祉に携わりながら生きてきました。
人生の半分以上の年月ですので、すでにライスワークではなくライフワークと言ってもよい頃かと思っています。
そんな仕事がら
私はたくさんの本人・家族・支援者などにお出会いしてきました。
生活の場であるご自宅、入所している施設、病院など様々な暮らしの場にも触れてきました。

私は、「対人援助職は、今の世の中には不可欠な仕事であり、その役割は広く、価値は高く、やりがいのある仕事であると思っている
とことあるごとに人に言っています。
対人援助職でも、特に相談支援は、マクロを前提とした社会制度⇔ミクロである生身の本人の暮らしぶりの間を往来しながら、
出会った「本人」と、その「家族」と、時には出会った「支援関係者」とともに
豊かさや生きることを真剣に一緒に追求していける仕事です。
追求していくわけですので、終わりがありませんし、答えがありません。
時折、答えのようなものに出会って、心が震える瞬間が「私という支援者もエンパワメントされる」
に直結しているのです。生まれ、育ち、培ってきた経験・世代・習慣などが異なる個人がたまたま支援関係で出会い、
ごったな価値観を持った間柄でもって、どんなことを大事にしたいと思っているのか、
何を伝えたくて、何が知りたくて、どんなことが好きで嫌いで、何が喜びで、何が悲しみか
とかいう話ややり取りを真剣にしていくのです。関わる人を真に信じ、
信じているということを伝え続けるやりとりがそこにあります。

こういった相互エンパワメントの瞬間を、たった一度でも対人援助職が築き持てているならば、
痛ましく誰も幸福ではない事件はおきないはずなのではないかと思うのです。

しかし、こうはっきりと言葉にできるようになるまでには、
葛藤や迷い、怒り、焦り、などのこころの揺らぎに苦しんだ時期もありました。

相互エンパワメントを広げるには

①自分の被害性・加害性を認める

振り返れば、学生時代の実習先の事業所・病院や、実際に働いてきた法人でも、
今回の事件と同じような、似たような虐待光景は目にも耳にもしましたし、
不適切なかかわりというのは存在しつづけています。
私自身が上司からひどいセクシャルハラスメントにあったこともあります。
わが身に置き換えると、子育ての場面において日々の積み重ねがある中で、
こんなにしているのに〜うまくいかない。
誰もわかってくれず、助けてくれない。
という被害性から、「何かの拍子に」私自身が
発作的に加害性を帯びてしまうということはあったように思います。

家庭内でも、学校内でも、職場でも、施設でも、同じような事件が起き、
犠牲になる人が後を絶たない事実があることを思うと、
人はだれしも少なからず「被害性・加害性」を帯びながら生きているのではないか
という確信のようなものを持つようになりました。
そして、なにか自分の足元が揺らぐ不安生じる出来事に遭遇することで、
その加害性が明らかに加害となり露呈することになるのでは
、と思うようになりました。

ともかく、私には現在進行形で、
対人援助実践の中に心の揺らぎがあり続けているわけです。
だからこそ神出病院事件の報道を知った時、私
「加害者は、誰もエンパワメントしておらず、よって、誰からもエンパワメントされていなかった
=相互エンパワメントを経験していなかったのではないか」という思いが真っ先に浮かびました。

②厄介な“かもしれない不安”と共存する

思うに、私たちは特定の場があると、
役割を果たそうとする適応力と順応力を発揮します。
家庭であれば、父・母・子・兄…であったり、学校であれば教師・生徒であったり、
組織であれば上司・部下であったり、病院であれば医療者と患者というようにです。
言い換えると、私たちには「〇〇として」という役割を察知し、意識・無意識にかかわらず
果たそうとするこころの働きがあると思うのです。
その役割を察知するがゆえに配(コントロール)と従属(依存)という関係が
成立してしまうこともあります。
これは、支援者と利用者にも生じますし、
組織と属する職員(支援者)など様々な関係にあてはまるものです。

さらに厄介なことに、今の社会構造はその役割を果たしているかどうかの結果を
求められることが多いということです。
一定の結果を出すことができない者は能力が低い者とみなされる価値観が
システムによって作り上げられてしまっているのです。
私たちは、測られ続けているわけです。

だから、標準的であることや一般的である枠内に自分があるかないか
というところにもつい目がいき、他者と比較することもあるでしょう。
そして、安心を得たり反対に不安を感じたりするのです。
「もしかすると、私は社会には不要なのではないか。不要になるのではないか」
という“かもしれない不安”というものを
実はうっすらと抱えている人は少なくないと思うのです。

私は、その“かもしれない不安”が蓄積されていく中で、
内なる「被害性・加害性」と結合すると、誰も幸せではない出来事が起きるのではないかと感じています。
例えば、役割そのものが無い、求められる役割が理解できない、
役割に納得がいかない、役割への疑問、強要された役割である、
などに本人が気づけない、
気づいたとしても本人も周囲も何も手当をしないままにしておくと、
その人に幸福や豊かさから遠ざかる危機がおとずれるのです。

特に私が危惧しているのは、障害福祉サービスでも医療でも、
「計画・実行・評価・改善」というサイクルが導入され、
“エビデンス”なるものを明確にして支援にあたることが最善だという潮流です。
そういう教育を受けた支援者は、おのずとその型に適応し順応しなくてはならない状況におかれるわけです。
そこに囚われると事態は悪化の一途をたどり、
実際支援にかかわることは不可能となります。
結果、利用者が不利益をこうむるのです。

私は、それに近い危機に瀕した経験があります。
恥ずかしながら、現場で号泣したこともありますし、
関係者に怒りをぶちまけたこともあります。
それはすでに加害性が発動している状態だったと言えます。

私の場合は、時間は必要でしたが、あい対する本人やその家族、同僚や友人、
このバリアフリーチャレンジのライターも含め、
自分を素朴にまっとうに自分の外部に晒す機会を持ち続け、
エンパワメントされることによって、
加害性や“かもしれない不安”との共存が適い、
この仕事が継続できているのです。

③本人の力を借りること、本人あってのこと

ここではっきりと申し上げたいのは、
対人支援を生業としている・していくならば、
支援者は自身の被害性・加害性と“かもしれない不安”への対処方法(立ち戻れる場所や人など)
を「知っておく」「持ち続ける」ことが不可欠であり、
もしまだ対処方法を持ちえないのであれば
支援者本人や周囲が「持てるようにする」
ということが最優先事項
だということです。

しかし、多くの支援者は、その実践をする余裕のない中にあるのかもしれませんし、
その機会や動機を失っている状態かもしれません。
ですので、積極的な支援者支援が必要な時になっているということを認めるしかないのです。

まさに今、私が取り組みたいと考えていることは、
過去の記事にも明記していた「本人が堂々と胸を張って生きる」
を目指すとともに「支援者も堂々と胸を張って生きる」
を目指すことです。

私は、どんな研修より、上司の指導より相互エンパワメントの瞬間に立ち会うことが一番よい
と思っています。今のところ浮かぶ具体的な方法は、
本人の力を借り、本人の存在をもって、
支援者自身がエンパワメントされる経験を1回でも持つこと
のみです。
それを力にして、支援者自身は痛みが伴う覚悟で真の自己覚知を深め、
利用者の前に「わたくし」として対峙できる状態に近づくという方法しかないと思っています。

さいごに

神出病院の事件を受けた連載の最後が
支援者支援が必要で、相互エンパワメントの瞬間に立ち会うことが最も効果的である
という結論になるとは予想をしていませんでした。
シンプルでよいかもしれないと感じています。

医療であれ福祉であれ、人が人を支援するということは、
一体どのようなことであるのか。
という問いに関する答えは、明確にはいまだ持ち合わせていませんが、
その答えもまた、利用者とともに見つけたいと思っています。
この記事を書くにあたり、賛同してくれたライター達を含め、
記事を待ち、エールをくださった皆様に、
そしてこれまで関わりのあった皆様に心からの感謝をここに記し、
閉じたいと思います。
ありがとうございました。

~あとがき~

専門性とは何か、を簡潔に言葉にしている方がいます。
「人間性・社会性・専門知識だよ」(三田優子氏)という言葉です。
10年前にこの言葉に出会い、なんてシンプルなんだ!
と感じた私はいまでもこの言葉をずっと頼りにしています。

いまでは、どの職種でも同じだなと思っています。

参考文献:「ケアからエンパワーメントへ」北野誠一著:ミネルヴァ書房:2015年 発行

投稿者プロフィール

aruiru(アルイル)
aruiru(アルイル)相談支援専門員、社会福祉士、介護福祉士