ボランティアは人と人が繋がりやすい。

ボランティアの広場「ぷらざこむ1」で インタビューに応じる公益財団法人プラザ・コム 代表理事の岡本さん

 

 

岡本さんが私財を投じて整備された
宝塚市の福祉コミュニティプラザ内にある
ボランティアグループの活動スペース「ぷらざこむ」
を利用している皆さんにされている話があるということで
私からの質問は挟まないでその話をまず伺いました。

お人柄を文章で伝えるには、話された内容を
そのまま表記するのがいいという考えから、
以下、軽く整えた程度でほぼ音声のままです。

始まりは阪神淡路大震災

僕がボランティアを始めたのは、
震災の時です。

市役所に駆けつけて、
最初にしたことが屋根にブルーシートを張ること。

それをしている間に仮設住宅ができてきた。

仮設は入り口や風呂場などに段差があった。

「その解消のボランティアをして欲しい」
という要請が市からあったんです。

それならグループで活動しようと
今もある「日曜大工ボランティア
でえくさんず」をつくり、
仮設住宅を回りました。

ここでは大工仕事だけでなく、
力仕事はなんでもやった。

家具の移動や引っ越しなどのボランティアを
仮設が解消するまでずっと続けました。

その時の活動拠点が
ボランティア活動センターでした。

そこは事務所が真ん中にあって、

周りにボランティアが使う机が3つくらいあったかな。

そのうちの一つを「でえくさんず」
専用の事務机と言うことで貸してくれた。

専用なので毎日そこにいて、
活動できました。

そう言う場があったから活動できた。

震災ボランティアということで、
特別に貸してもらったんですが、

「他のグループはいつでも使えるところがない」
というのがその時に思ったことです。

で、いつでも使える活動場所があれば、
もっともっと市民がボランティアに参画するのではないか、
と考え、広くて大きなボランティア活動センターを自分で作ろう、
と思った。

市にそう言うモノを創りたいから協力して欲しいと話をして、
住友信託銀行のグランドだったこの場(インタビューをしたぷらざこむのある敷地)
にあった仮設が解消するということで、
銀行と交渉して個人で購入しました。

それから財団を設立して、
ここの整備を始めました。

で、ぷらざこむ1とフレミラを建てた。

フレミラは市に売却して、
市から38年ローンで、元本と利息の返済があります。

そのお金でここ全体の維持管理をしています。

こういう風に建てたという話をいつもしています。

なぜ、巨額のお金が必要な複合福祉施設を整備できた!?

一般的にこういう話をすると、
皆、口にはしないけども
「え、なんで?」

という感じの顔をする訳。

そこを言わないと消化不良になるので
もっと昔に戻って、種明かしをします。

「こんなおじさんがなんでそんなことできたの?」

と思ってるでしょと。

僕は元々電子技術屋で回路設計をしていたんだけど、 30歳手前の時、失業していました。

で、当時不況で色んな会社を回ったけど、 縁がなかった。

たまたま小さな新聞広告の求人を見て、 受けたら「来てくれ」と。

小さな会社だったけど、仕事をし始めると面白くて どんどんのめり込みました。

社長 か ら 「これからオートメーションのセンサ一が売れる。 それを開発してくれJ と言われて開発をして、製品化されました。

売上が毎年倍々という感じで売れに売れた。

会社がどんどん大きくなって、 そうこうしているうちに一部上場。

 

でも、僕の方はそれと相反するように沈んでいったんです。

ボランティアをしたくて一部上場企業を退職?

ここからインタビュー形式で。

―と言いますと?

(岡本)

会社が大きくなると部下も多くなります。
でも、僕は技術屋だから人を扱うのが苦手なんです。

とうとう社長に辞めさせてくれと言いました。

何か理由がないとなと思って、
その時の理由を「ボランティアをしたいから」
ということにしました。

―笑。理由が必要なのは分かるんですが、
そこで「ボランティア」が出たというのは

意味があったんですよね?

(岡本)

いや、今考えたらよく分からない。

―え!?

(岡本)

分かんない(笑)。

―辞めたのはいつのことですか?

(岡本)

震災の前年だから1994年かな。

―時代背景としては、
バブルが終わった頃ですね。

(岡本)
うん、もう終わっていたね。

ちょうど会社が上場した後にバブル崩壊。
上場した時に会社にドーンとお金が入ってきて、
巨大な自社ビルも建って。

土地はバブルの値段で買っているから、
その後暴落しているけど、
会社としては結構大きなビルを建てられた。

それが建った頃に辞めました。
で、社長も分かってくれていて、
「しばらくの間、監査役でいいから来ないか」

ということで、月に一度出社という形でした。

翌年震災が発生して、
「ボランティアがしたい」と言って辞めているから(苦笑)、

―やらないといけないなと?
そういう話なんですか!?(笑)

ボランティアの魅力は人間関係

(岡本)

そういう話(笑)。

で、仮設住宅でボランティアを始めてみたら、
仮設の人達と仲良くなるというか、
繋がりができますよね。

それが会社での人間関係とは全く違った。
会社は成果第一だから、
仕事ができるかどうかで評価される。

地域の繋がりは人間と人間の付き合いで、
すごくリラックスして付き合えた。

その人間関係が魅力的、新鮮で
ボランティアにのめり込んでいきました。

それにボランティア仲間には上下関係がなく、
中学生から年配の方までいる。

ボランティア活動だけでなく、
ハイキングやカラオケに行ったり、
皆で騒いだりできました。

―そういう人間関係は会社勤めしている中ではなかった?

(岡本)

会社では、たとえそういう場に行っても、
会社の枠があって、こちらは上司だからリラックスできなかった。

―でも、そこで勤めたからこそ、
ここを整備できるような
財を成せたんですよね?

(岡本)

僕は三番目に入社して、
その当時「株を持たないか?」
という話が社長からあって、
「はい。そうします」と。
そんなにたくさんの株じゃないよ。

―ええ。たくさんだと、
経営的にややこしいですもんね。

最初から社長さんは、岡本さんの技術を繋ぎとめる意図で
ストックオプション※として株を持たせたんでしょうか?

※「サラリーマン投資の教科書」
クリックしてご参照下さい

(岡本)

そう思います。

―その頃からこの株は上がると思っていらっしゃいましたか?

(岡本)

全然。社長はずっと「この会社を上場させる!」
と言っていましたけど、
「何をでかいことばかり言ってるんだ」
と思っていました。

でも、精神的に強い、
経営者としてすごい人だと
今となっては思います。

自分の考えを貫くって
なかなかできることじゃないからね。

―こういう話をこの場を利用されている
活動グループの皆さんにされているんですか?

(岡本)

ええ。
今日はいつもより丁寧に
枝葉の部分まで話しているけどね(笑)。

―震災の時の経験が転機になったようですね。

その時にボランティア活動センター
という場所を使えた事が大きくて、
そのような活動場所を提供したいという流れが
あったのだと理解しました。

震災当時、震災ボランティアであれば、
ボランティアセンターを自由に使うことができたのでしょうか?

(岡本)

僕らは毎日通っていて、
そこまでするボランティアは他にいなかったので、
誰でも使えた訳ではありません。

他にも震災ボランティアのグループはあったけど、
当時50歳手前の若い働き盛りの人が
働かないで毎日ボランティア活動するって普通ないでしょ?

こちらが働かないでいい状況だというのを周りは知らない。

テーブルを貸したものの、
後から聞いた話だと、裏では
「あの人、どういう人なの?」
って色々噂していたらしい(笑)。

―笑。なんかおかしな人じゃないか、みたいな?

(岡本)

そう言う話はあったでしょうね。
まぁ、そう思うよね。
仮に今、ここに
元気な人が働かないで毎日いたら、
なんかおかしな人だな、ってなるもんね。

―阪神淡路大震災の年は、後に
「ボランティア元年」と言われるようになりました。
震災があり、人を助けたいと
ボランティアに入った人は他にもいたと思います。
ボランティアグループはたくさんありましたか?

(岡本)

仮設の中で何かコミュニティを作ったり、
お茶会をしたりというグループはいくつかありました。

その中でも熱心にやっていたのが
今でもここに来ている○○さんという女性の方で
今は東北の支援を一生懸命されています。

―ああ。その方のお名前は聞いたことがあります。

(岡本)

有名だよね(笑)。
彼女は事務所に来るよりも
仲間数人と仮設をどんどん回っていました。

―私がここで働いている合間に☆ボランティアの位置付け
についてのお話を伺いました。

☆昨年9月~今年3月までの半年間、
岡本さんが整備された複合福祉施設内の事業所で
私はパートで働いていました。
岡本さんがいつもいらっしゃるデスクから2m程の距離の受付が
持ち場でよくお話しさせて頂いていたのです。

市から仮設の段差を解消して欲しいという要請があった時、
無償でという条件付きだったんですか?

(岡本)

ええ。市に金がなかったからね。

ただ、材料費まで「ボランティアが出せ」
とは言えないよね。
だから、「材料費は出します」
と言っていたんだけど、後から聞いたら、
それも市の消耗品費から出していたらしいです。

―え!

(岡本)

それくらい当時はお金がなかった。
でも、その後県から寄付金である復興支援金
というのが市におりてきて
それからは年間数十万円くらいは確保できた。

―段差解消などを仕事としてやっている業者もいて、
当時の要請は仕事であれば報酬が発生する中、
ただでやってくれるところがあれば、
そっちに頼むという論理ですかね?

(岡本)

コストカットの面もあるけど、
ボランティアが仮設に入ってそこにいる人と
交流ができると言うのが大きい。

行政がそこまで計算に入れていたかは正直分からないけど、
何かあった時に相談できるとかそう言う安心感は大きいです。

とにかく仮設というのは、ガラス張りの構造上、
外側から丸見えでプライバシーも何もない。

逆に、仮設内の人も外が丸見えだから、
僕が歩いていたら、バァーッと扉開けて、
「岡本さん!」って呼び止められたりする。

パッと作業やって、サッと帰ろうか、
と思っていても捕まっちゃう。

そう言う関係だから、
仮設に色んなボランティアが入って、
お手伝いすることは、
仮設の人にとって良かったと思う。

で、仮設が解消すると、
今度復興住宅に入るのね。

マンションのようなところに入って、
鉄の扉をバンと閉めてしまったら、遮断されてしまう。

―それまであったコミュニティがバラバラになってしまう?

(岡本)

そう。
コミュニティが崩れてしまう。

復興住宅に入った後も、
何か依頼があればお手伝いしていたけども、
徐々に遠ざかってしまった。

その中で、「復興住宅は寂しい」
という声も聞こえてきました。

―適当な理由付けで
「ボランティアがしたいから」
と会社を辞めたけど、
実際やってみてから、
「ボランティアいいなぁ」
となったんですね。

(岡本)

当時、会社人間が地域に入って、
地域の人達との繋がりができて、
その関係もボランティア仲間との繋がりも新鮮で感激したんです。

―定年で地域に戻ってもやることないというのが
問題になっている中で普通ないですよね。

(岡本)

そうそう。
だから震災がなかったら、
僕の人生はすごく寂しいものだった。

―そこで感激して、
ボランティアのために生きていく!
となったのでしょうか?

(岡本)

いや、その新鮮な感激がずっと続く訳ではないから、
今はボランティアに対する見方も少しは冷静になっています。

―冷静というのはどういうことですか?

(岡本)

ボランティアのいいところだけでなく、
悪いところにも目を向けられる。

―悪いところを具体的に言うと?

(岡本)

責任をとりたがらない点です。
責任の生じる場面になると、
ボランティアはちょっと引いてしまうんです。

―そうなんですね。
何となくイメージはできます。

(岡本)

いいところは、仕事だとやることが決められていて、
そこから外れたことをお願いした場合、
断らない人もいるかもしれないけど、
正当に断れる。

でも、ボランティアは、そうでなくて
人間関係で繋がることができる。

「こういうことやってよ」
と言われた時に、
人間関係でやってあげたいと思えばやるし、
単にボランティアで何かしてもらう
というのでなく、人と人が繋がりやすい。

―(先日私が仕事に入っている合間に)話させて
頂いた中で、ボランティアの定義についての
お話がありました。

「無償」でなければボランティアとは言えませんか
(「有償ボランティア」という言葉もありますが)?

(岡本)

僕はそう考えている。
有償でやって、
その人にとって「これはボランティアだ」
と言うなら、その人にとってボランティアでもいいけど。

―それをあえて「ボランティア」と
表現する必要はないと個人的には思います。

(岡本)

―「ボランティア精神」
って言葉がありますよね?

(岡本)

ああ。
ボランティア精神ね。
ボランティア始めた時は、

「ボランティアはこうあるべきだ」
っていうこだわりあったなぁ。

ある仮設に行った時に、
目が悪くなってきたおじいさんに
「危ないので手すりを階段に沿って斜めに付けて欲しい」
と依頼されたんです。

「こうしたらできるかな」
というイメージでやったんだけど、
こちらは素人じゃない?

で、翌日「どうですか?」
と確認に行ったら、
おじいさんが「がたがたで危ないやないか!」
と怒る訳。

―苦笑

(岡本)

そう言われて、ここで
「こっちもボランティアなんだから」
と言ったら、ボランティア精神に反すると思った。

ボランティアは相手のことを考えて寄り添わないといけない。
ここは我慢だと、「もう1回やり直しさせてください」
とお願いしました。

―それは岡本さんのボランティア精神に反するのかも知れませんが、
相手の方が社会人としてちょっと…と僕は感じますね。

(岡本)

その人は多分僕らのことをボランティアと
思っていなかったと思う。

仕事として職人が来たと思っていたんじゃないかな。

で、作り直して、また「どうですか?」と訪ねたら、
今度は「上がってお茶飲んでいけ」と。
その後、長い長い話があって(苦笑)。

その時、
「やった。こういうのがボランティアだ。ボランティアはこうでなきゃ」
と思って、一人前のボランティアになれた気がした。

―今もその思いに変わりはありませんか?

(岡本)

今、それだけの精神的な余裕があるかどうか分からない。
それに、「ボランティアかくあるべし」
と人には言いません。

「まぁ、やりたければやればいいし、
嫌ならやらなければいいと言う自発性だよね。」

―僕は仕事の収益性とボランティアの無償性が
交わる部分があるんじゃないか、
と思っているんですけど。

(岡本)

え、どういうこと?
ボランティアをやり過ぎると
他の収益を目的とする事業が成立しなくなる?

―いえ、妨害すると言うことではなく、
ボランティアのいいところと収益を出すために仕事としてやる
という精神が重なる部分があって、
そこをうまく活かせれば責任を取るという意味でも
相乗効果があるのではないかと。

今、岡本さんが進めていらっしゃるプロジェクト※では、
運営母体はボランティアで事業の委託先は
収益事業でやると伺いました。
これもそういうミックスを狙っているのかな
と思ったので。

※複合施設の敷地内にある「ぷらざこむ2」
という施設の建て替え(詳しくは後述)

(岡本)

母体というのはここの公益法人が
ボランティアという意味?

ボランティアという言い方はしてないけど、
公益法人の仕事として無償で施設は貸します。

でも、公益法人としての仕事です。
というのは先ほど言った「やりたければやればいい」
という無責任な話でなくて、公益法人の仕事なので、
法人として責任を持ってやります。

これはボランティアと捉えていない。
収益はないんだけど、公益法人のやる仕事。

―そこに収益を生むと言う発想は入らない?

(みんプロ副代表 村上※)
※このインタビューの場には、もう一人
村上さんが同席されていました。
前述の建て替えプロジェクトの副代表です。

今質問されたのは(公財)プラザ・コムのことですか?

―違います。今度建て替えで新たにできる
「あるでこむ」を運営する法人を
新たに設立すると聞いたのでそちらです。

(村上)

岡本さんが説明されたのは
プラザ・コムの事だと思います。

(岡本)

ああ。「るでこむ」の方は
ちゃんと収益を生んで人を雇って、
運営します。

-法人の種類が何になるのか分からないですけど。

(岡本)

今、一般社団法人にすると言う方向で話が進んでいます。

―その中で委託先法人でなぜ、障害者雇用を生み、
障害者が運営を担う形にしようと思われたのでしょうか?

(公財)プラザ・コムの基本理念は、
「市民自らが町や社会をつくる」です。

ぷらざこむ1もボランティアの人たちが
「こむ1会」をつくって運営しています。

「あるでこむ」も市民自ら作ってほしいと
言う願いです。

現在進行中の共生社会の実現を目指すあるがまま交流活動センター「あるでこむ」プロジェクト

特に「あるでこむ」は「共生社会を実現する」
と言うのが理念です。

ですから、「あるでこむ」をつくる市民には、
多様な人がいて欲しいと思っています。

そのいろいろな人の中に障害者も含まれる。

―前後しますが、この福祉コミュニティプラザ
の敷地を個人で買われ、整備されたと言う話がありました。

整備されたのは、時系列としては震災時にボランティアをされた後ですね。
ボランティア経験の中でこのような場の必要性を感じたのが動機でしょうか?

(岡本)

と同時に個人的にやりたかったんです。

―それは会社を辞めた時にとりあえず
「ボランティアをやりたい」
と理由を付けたのとは違って
自分のミッションだという感じだったんでしょうか?

(岡本)

財を成したって言うけど、
その財はどうやって成したかというと、
自分の能力だけでできたわけではない。

社長や社員の能力もあっての財ですよね。
それを個人だけで占有するのは違うという思いは
ボランティアをする前からあって、
それをどうしようかな、と思っていました。

―ただ、同じように財を成していても
独占する人もいますよね。

そうならなかったのはなぜですか?

これまでの人生経験の中で思い当たる事はありますか?

(岡本)

学生時代、全共闘とか学生運動が盛んで、
それに入っていた訳ではないけど
当時社会主義に傾倒しました。

現在、社会主義がいい、
資本主義がいいというようなことは
思ってはいません。

ただ、当時、平等な社会を作るには、
社会主義がいいと思ったんです。

単純にそれで平等な社会ができる訳でないことは
分かったけども、でもそれを実現するには
どうすればいいか、と思ってきました。

そんな中、資本主義社会において、
株で財をなす人も出てきた。

自分の能力で成したならまだしも、
僕の場合はそうじゃないから、
罪の意識のようなものがあった。

―罪の意識ですか・・・。
京都の大学に行かれていたんですよね。
京都はどちらかと言うと、左派が強いですよね。

(岡本)

そうだね。共産党の強い地域だから。

―そうですね。
この福祉コミュニティプラザを創って、
そのうちの一つであるフレミラを市に売却して、
その返済金で施設の維持、管理ができる財務状況なんですね?

(岡本)

ええ。

―ぷらざこむ1(ボランティアグループを中心にした活動場所)、
フレミラ(市の高齢者とこどもが利用する施設)の2つがあって、
途中でこむの事業所(障害者就労継続支援A型事業所:
私がパートとして働いていたところです。)
ができたんですよね?

で、ぷらざこむ1ができたのが2002年でその間も
ぷらざこむ2は、改装はしたけど
以前からの建物が継続的にあった?

(岡本)

ええ。

―で、今日のテーマの一つですが、
その建て替えをするというのは、
降って湧いて出た話ではないですよね?

(岡本)

築60年経過していて、
危険な箇所が出てきています。

専門家の診断を受けて、
補強するか、建て替えるか
という話になりました。

で、建て替えようと。

当時は取り壊して同じような建物を
平屋で隣の現在テニスコートになっている
敷地に建てて、さざんか福祉会が障害者のために
利用する施設に、という現在の延長線上で考えていました。

ただ、さざんかさんが使うのはいいけど、
こちらとしても障害者のグループが文化、スポーツ活動
に使っているとはいえ、利用グループはわずか10。

それを建て替えるとなると、
土地や大金を使う訳です。

これでいいのかと思っていたら、
こむ2運営委員代表の方から
「今のままでは利用者が増えない。本格的なモノが必要だ」
という提案がありました。

―ということは、その方が言い出さなければ、
岡本さんは現在進行中の建て替えプロジェクトを考えていなかった?

(岡本)

考えてないだろうね。

―ここは障害者のスポーツ、文化施設
というのが既定路線なんですか?

(岡本)

違います(即座に否定)。

障害者スポーツ、文化施設を造ろう。
で、大々的なモノを造ろうという話がありました。

大々的なモノを造るなら、
障害者の人達が集まって、
皆で考えて造ろうよという話になりました。

で、「みんなでつくるプロジェクト(通称 みんプロ)」
というのを作ったのね。

その中の議論で障害者だけが集まる施設というのは、
今の共生社会という考えに沿わないという話が出ました
(僕はその時共生社会についてよく分かってなかったけども、
「そうだねぇ」と笑)。

―ちなみに、それを障害当事者でおっしゃる方はいましたか?

(岡本)

いなかったと思う。
どちらかと言うと、「障害者のための」
という感じで共生の方に舵を切ることには
難色を示した気がします。

でも、障害者のグループ一つ一つと話をすると、
みんなも一般の人たちと繋がりたいと思っているんですね。
ただ、自分たちがはじき出されるのではないかと不安を持っていただけなんです。

―その時の説明は岡本さん自身がされたんですか?

(岡本)

ええ。
でも、これがあって初めて丁寧に話をすることができて良かったです。

―共生社会という言葉が出たのは
「みんプロ」ができた後ですか?

(岡本)

ええ。

―その時、村上さんはどういう関与の仕方だったんですか?

(岡本)

最初からだよね。

―どういう経緯で加わることになったんですか?

(村上)

こむ2運営委員代表の方からこの話を聞きました。
ちょうど立ち上げの時で私自身が精神障害者なので、
当事者として関与するということで加わりました。

―事前に少し伺った「みんプロ」の変遷によると、
最初にたくさん人が集まった?

(岡本)

うん。
集まりました。

―でも、この人数では進まないということで
中核となる合議体を作ろうとしたら、
今度は逆に少なくなり過ぎた?

(岡本)

うん。
またこれではマズイとなって。
「増やさないといかん」って(笑)。

―それで機能を分散させて増やすということで、
色んな部会ができたということですか?

行程表があるとして、
現在の進捗はどういう感じでしょうか?

(岡本)

その通り行くという訳ではないですが、
こういう感じで行くという宣言を
市に出しました。

スペースの制約があるので出たアイデアを
集約した構成図があるんですが、
この中から「みんプロ」で選んでいきます。

―それはさきほどおっしゃった
分科会や核になる作業部会が集約したんでしょうか?

(岡本)

いや、分科会は希望をあげてきます。
それをひとまず列挙してこれから選んでいく
段階に入ります。

ー各合議体のメンバーは継続的に参加している人もいれば、
途中でいなくなる人もいたりと流動的なんですか?

(岡本)

そうです。

ー途中でいなくなった人が参加されていた時に出したアイデアで
残っているものはありますか?

(岡本)

あります。

(村上)

現段階では、出たアイデアは生かして載せています。
これから絞り込む段階ですね。

ー出たものは排除していないみたいですし、
このプロジェクトは自由な議論で進んでいるんですね?

(岡本)

これからが大変かなぁ。

ー建物の中身は自由な感じですけど、
理念はものすごく壮大です。

この施設ではこういうことをするという
軸になるコンセプトを簡潔に言うと何ですか?

(岡本)

それも今議論しているところなんだけど、
この前話した時は「交流」を柱にということです。

そう言う抽象的なものは出ているけど、
まだ具体化してない。

ーそこを先に決めて、
それに合わないものが外れるか、

今出ているものの共通項を集約して
コンセプトを定める。
二つの手法があるかな、
と個人的には思います。

(岡本)

その辺は難しいね。

ー議論を進めることについて、

「“みんな”でつくるプロジェクト」
と言っている中で

誰かリーダーシップを発揮されている方
はいるんでしょうか?

毎回2時間超の会議をされていると聞いたのですが、

個人的には、会議のための会議はあまり好きでないので、
そこに興味があります。

(岡本)

長い会議?
人数が多いと、
一人が喋る機会が少なくなるから
長くやらないと繋がりが薄くなるじゃん?

ーそうですね。
今、合計で何人のメンバーがいらっしゃるんですか?

(岡本)

最初の全体会にいた人全てが残っている訳ではないので
今は・・・

(村上)

20人くらいですね。

ーそれでもプロジェクトの人数としては
結構多いですね。

その人数で議論していて
ちゃんと決まりますか?

(岡本)

その議論で決まる例というのは少ないかな…。

(村上)

決まると言えば決まります。

ただ、今後実際のスペースの制約による取捨選択の
段階になったとき、
どうなるかなぁという感じです。

(岡本)

人数が増えるほど
話をしてもまとまりはなくなってくるね。

人数が少なくなって増やそうとして増えすぎたので、
今核になる部会で決めて全体に上げようとしています。
で、承認を得る。

(村上)

皆の声を反映させるというのは勿論、
各分野の具体的な部分を全体で決めるのは困難なので
各分野の仕様を分けて、決めていくということに
分科会の意味があります。

もう一つ、現実的に全体会はそう頻繁に開けないですし、
人数が多くて決まらないというのはあります。

ただ、「みんプロ」に参画しているメンバーが
自分達のプロジェクトだという意識を持てるように
分科会があるという感じでもあります。

ですから、何らかの分科会に加入して欲しい
という声かけはしています。

ただ、分科会の出席率は良くありません。

ーこの中身が決まり次第着工ですか?

(岡本)

勿論、決まらないと図面が引けないから。

ータイムスケジュールを教えて頂けますか?

(岡本)

どう言う中身にするかは(2018年)6月末を目処に決めて、
それから基本設計です。

着工が2019年の終わり頃かな。

現在のぷらざこむ2の解体に3ヶ月、

建設が9ヶ月で1年。