腎移植患者の苦労した雰囲気を
感じ取って頂くだけで充分です。
1.はじめに
世の中にはいろんな人がいます。
多くの人が、この世に生を受けて順調に過ごしていますが、
運悪く生まれながらに障害のある人、
又順調に生活していたにも拘らず身体の内的、外的の違いはあれ、
突然のアクシデントにより順調でなくなった人が沢山います。
子供の頃からから縁あって知っている
島本昌浩さんもその運悪く障害のある一人となりました。
彼の人となりは彼自身の闘病記「チャレンジドとして生きる!」
の文章をご覧になって頂けばよくわかると思います。
また、メールマガジンをご覧ください。
これを読みますと彼が、
不屈の精神の持ち主であり、
挑戦者であることがわかります。
彼とは異質のものでありますが、
障害者という共通のキーワードで私達は繋がっています。
少し違った側面から、
私の感じていることを述べたいと思い
キーボードをたたきました。
暫らくお付き合いの程お願いします。
2. 私の障害者としてのはじまり
私は、今年で75歳という老人の域に達した者で
関東の相模原市で暮らしています。
我々の青年、壮年時代は、日本が世界に向けて
経済的に発展して行こうという創成期であり、
国民が努力した甲斐あって日本が世界に堂々と渡り合える
経済大国に発展していったことは、皆様もご存じの通りです。
私も競争しながら企業戦士として頑張ったものでした。
40歳の前半に風邪で40℃の高熱が数日あり、
扁桃腺から急性腎炎を患って
一年間の治療を受けていました。
その後ほぼ完治したので、
毎日忙しく働いていました。
50歳の後半に会社が中国と合弁会社を作る事となり、
日本サイドの責任者として土地の買収整地から
工場建設や社員の募集育成、中国社員の指導等で
寝ている暇がない位の忙しさでした。
特に当時の中国は、交渉事が難しく
心労の連続でしした。
工場はお陰さまで順調に稼働しましたが、
3年目に私の腎臓に不調が出て、
やむなく帰国して再度病院の
世話になることになりました。
3. 障害者になり腹膜透析を開始
腎不全の治療をしながら会社勤めしていましたが、
ある期間から透析生活に入る程腎不全が悪化。
最初は自分の腹膜を利用しての腹膜透析を4年間やりました。
腹膜透析は、初期の腎不全患者には、
日常の行動が出来、会社や学校に通っている人には
適しているかもしれません。
しかし厳密な衛生管理が絡んでくると
なかなか誰でもやれるものではありません。
腹膜透析時の衛生環境が求められます。
管理が不十分であると
命に関わる状態になるからです。
例えば不潔な環境で手も充分洗っていないような状態で
透析液の交換をすると腹膜炎を起こして、
救急車を呼ぶような状態になり、患者は大変苦しみます。
大袈裟に言えば透析液を交換する接続部は、
体の中と同じ状態だからです。
そこは絶対接触してはいけない部分です。
私が最初始めた頃は、一日6時間おき(現在は透析液が進歩し一日2回の交換が可能)に
腹膜に入っている透析液(重量2000g)の交換をします。
2Kgと言うと臨月の妊婦さんと同じ状態です。
朝6時、昼12時、夕方6時、夜中12時に約30~40分かけて
腹膜に入っていた透析液の交換をします。
昼等は衛生室や保健室の整った会社や学校は良いですが、
一般的には会社や学校の理解がないと
その環境を作ることはなかなか出来ません。
私の場合、自宅は病院の看護師の指導で病室と同じ様に模様替えをして、
家庭の環境チェックを看護師さんにしてもらい、
お墨付きをもらいました。
透析当時は、外資系の会社に勤めていまして、
社長が私と懇意の方だったので、
社長室を昼休みの交換の時に使用させて貰いました。
一日6時間に1回と言う交換も結構大変です。
一日二日は出来るでしょうが、
365日それの繰り返しをする訳ですから
相当の覚悟が必要でした。
会社からは、夕方の透析の為退社時間を他の社員より
1時間早くして帰宅良いと許可を貰い、
夕方の交換をしました。
本当に有り難かった日々でした。
早朝と夜中の透析は、
暖房しても寒くて大変でした。
夜中に交換して就寝しても体調が悪い時は、
足が痙攣して吊った状態になり、
家族で大騒ぎ。
時には足の中を虫が這いずり回っている様な、
むずむずした状態になり、
眠ることが出来ずに大変困りました。
どれほど家族に迷惑をかけたか。
4.血液透析への移行
腹膜透析も約4年間行いました。
ただ、限界があり、余り長く続けていると、
腹膜硬化症や腹膜内の臓器の癒着等の合併症の誘発
につながる恐れがある為に腹膜透析も終えました。
体調もかなり悪くなり血液透析を行う事となりました。
専門用語でクレアチニンという
腎機能を示す一つの検査値があります。
健常者の場合は、基準値が
男性0.6~1.1,女性0.4~0.8です。
その時の私のクレアチニンは、
14.0ととてつもない高い値で、
下手をすると尿毒症や敗血症で
死亡することもある値でした。
そんなことで緊急血液透析
という一番きつい透析をすることとなりました。
週3日、一日4時間に渡る血液透析を行いました。
よく人から「透析している人を知っていますが、大変ですね」
と言われましたが、大変なんてものではありませんでした。
一日おきに畳針のような太い注射針を腕に2本刺して
血液の浄化を4時間かけて行います。
私の透析しているセンターでは、
以前透析中に亡くなった人がいた
ということも聞いていました。
透析すると言われた時のショックは、
死を宣告されたような気持ちです。
これは透析の診断を受けた人は
どなたでも経験するものだと思います。
我々腎不全患者は、透析が始まると
障害者の扱いを受けることが出来ました。
それは、透析をしないと殆んど死亡する
というリスクがあるからです。
しかしその時透析患者の皆さんに当てはまる問題
が出て来ます。収入のことです。
隔日一回4時間透析するということは、
働けずに収入が無くなると言うことです。
これは本人ばかりでなく家族を巻き込んだ大問題です。
私のような60歳を過ぎた人は、
退職すれば退職金や年金があるから
まだ条件的には恵まれている方ですが、
若くして血液透析になると働きながら透析ということになります。
これからの人は、障害年金が出ると言っても受給条件があります。
制度の加入や保険料等の納付などが十分でないと
支給されないなどです。
よって、病院の相談窓口や社会保険事務所、
最近は各地にある街角の年金相談センターや社会保険労務士
に相談するのが良いと思います。
金額がそれほど多くないということになれば、
無理をして働かなくてはいけません。
一般的な会社は、当てにならない人を
雇う訳にもいかず、結局退社して
転職となります。
世の中には透析患者に対する
理解があり、職場の配置転換等
を行う会社もありますが、
透析すると勤務に耐えきれなくなり、
自分で退社して転職する人もいます。
本当に苦労をしている人も知っています。
ただ世の中には捨てる神もいますが、拾う神もいます。
血液透析をしている人達だけで
運営している会社も相模原市にはあります。
印刷会社を作り、
会社の実績も上がっているようでした。
私も見学したことがあります。
社員は不平一つ言わず有り難い
と言って働いていました。
このような会社が増えて欲しいと思います。
企業側の障害者に対する理解と雇用について
特段のお願いをしたいと思っています。
血液透析になると腹膜透析とは違い、
食べ物できつい生活が待っていました。
毎日の生活が食事の制限、
カリウムの制限、たんぱく質(尿素窒素)の制限、
塩分の制限、水分の制限などという位、
制限のオンパレードでした。
腎不全になると、
腎臓の働きが悪くなり、排尿も出来なくなって、
身体は、浮腫んで足が丸太棒のようになります。
指で押すと押した跡が凹んで返ってこないような状態です。
従って水分を沢山摂ることが出来ません。
薬を飲むのと食事の時に少し飲むくらいです。
毎日朝起きるとだるくて
とても変な気持ちになり、
何をする気にもなりませんでした。
しかし、週3回、4時間の透析を行うと、
少し楽になり元気になります。
それでも次の日の午後には、
元のだるい状態になります。
その繰り返しの毎日でした。
5.腎移植
血液透析をしてから一年半の春に
家内から生体腎移植の話があり、
自分の腎臓を提供したい
との申し入れがありました。
私は、腎移植をするなら、
日本臓器移植ネットワークに
腎移植待機患者の登録をして
献腎(死体腎)の出る機会を
待つから良いと断りました。
しかし、家内は、
それこそ全国に1万人以上も
患者が待機している中で、
何時その機会が来るか解らず、
結局歳をとって諦めた人が多いと聞いていると。
だから、何とか自分が手術出来るうちに
手術して貰い二人で老後を助けあって
生活したいと涙して何回も話し合いしました。
悩んだ末、有り難く提供を受けることにしました。
私は、O型で家内はA型の血液なのでどうかと思い、
主治医に相談しました処、
クロスマッチ検査して適合すれば生体腎移植は、
AOBの血液型が違っていても出来ます
ということで、検査した結果
適合と言う結果が出ました。
家内の意思を再確認して
入院の上いろんな精密検査をしました。
そして2006年の10月に
北里大学病院泌尿器科の
吉田医師により家内の腎臓を生体腎移植して貰いました。
検査を入れて約2カ月の入院生活をして
今後の療養に必要な事項(薬や食事など)
生活の指導を受けてその年の12月
退院しました。
私は、自分の腎移植が出来、この世の中で一番大事な人
「嫁さん」の愛と北里大学病院の主治医や医療スタッフの皆さん
に対して感謝の念で一杯です。
腎移植した当時は、
腎臓の生着年数(移植した腎臓がその人になじんで機能を発揮している年数)が、
7年とか8年と言われていました。
現在は免疫抑制剤(移植した臓器を守る薬)の進歩と
医療技術の発展、そして患者の節制によって
個人差や病気の程度はありますが、
かなり長期の生着年数が望めるようになりました。
臓器移植で忘れてはならないものは、ドナーへの感謝です。
生体、献体の違いがあってもドナーあっての私達の幸福です。
一生感謝して日々頂いた大切な臓器を
守って過ごすことが大切なことと思います。
私の家内の身体のことも心配していますが、
8年たった現在も、大事無く過ごしています。
私の家では、今は「二人合わせて一人前」
という合い言葉で何をするにも一緒に行っています。
国内外の旅行や彼女は水泳をやっていて
平気で2000m泳ぎます。
勿論食事も腎臓が一個同士なので、
塩分やタンパク質等腎臓に影響のあるもの
には気をつけています。
私達の「なごみの会」の役員にも腎臓移植手術をして
40数年という人がいます。
10歳の時母親から生体移植して
貰ったのだそうです。
私達の希望の星です。
この幾行もない文章で今迄の腎不全の治療から
腎移植まで書いて皆さんに理解して頂くことは、
なかなか出来ません。
腎移植患者の苦労した雰囲気だけでも
感じ取って頂くだけで充分です。
私達臓器移植患者ばかりでなく、
肢体不自由者や後述しますが、
身体障害者の毎日の苦労も少し感じ取って頂ければ幸甚です。
6.障害者とバリアフリーについて
障害者は様々です。
例えば、身体障害者手帳の発行は、
身体障害者福祉法で定められており
各都道府県知事が発行することになっています。
対象として視覚、聴覚、平衡機能、音声機能又は言語機能,
上肢機能,下肢機能、心臓機能、じんぞう機能、呼吸器機能、ぼうこう又は直腸機能、
小腸機能、肝臓機能、ヒト免疫不全ウイルスによる免疫機能、
幼児期以前の非進行脳病変による運動機能、
精神障害者保健福祉手帳などこの他の障害も対象になっています。
さて、バリアフリーとは、障害者や高齢の社会的弱者に対して
社会生活をしてゆく上で不自由と思われる部分を取り除き、
生活しやすい環境を作る事と認識しています。
一般的には歩行困難者や車椅子利用者あるいは高齢の社会的弱者等が
生活に支障を及ぼす道路や建物などにある
物理的な障害物を取り除き障害者が
スムースに行動できるような改良工事が頭に浮かびます。
まさにその通りと思います。
現在の町の中は、まだまだ
道路も建物も障害者が暮らしにくい環境にあります。
役所でも各企業でも最近は、
障害者のことを考えて、対策を講じています。
それでも全部には目が届きません。
従って、障害者の方から「ここが不便です」
とか「直して頂けないでしょうか」
と是非声を上げてほしいと思います。
この例は、障害者のバリアフリーと少し違いますが、
私がつい先日行ったことをご報告します。
私の家の近くにバス停が有りましたが、
道路の拡張の為にバス停が移動に。
今までのバス停はバス会社の屋根付きの停留所でした。
しかし、移動後かなり時間が経過したにもかかわらず
屋根をつける気配がありません。
私はあまり利用しませんが雨の降る日は、
皆さん雨の中傘をさして列を作って
待っています。
天気の良い日はかんかん照りの中を
高齢者が待っています。
熱中症予防などを考えると
このままではまずいと思い、
市会議員にバス会社か市に屋根をつけるように
至急陳情して欲しいと依頼しました。
市会議員氏が先日要望書を出しましたと
コピーを持って報告に来てくれましたが、
いつか必ず付くと思っています。
このように誰か頼れるキーパーソンと
活動することをお勧めします。
バリアフリーも同じです。
快適に過ごせることを望むのは、
決して無茶な要望ではありません。
同じ要望を持っている人が沢山いるからです。
その人達は言い出せないだけのことですから、
自分の都合だから悪いと考えずに
不便を感じたら、是非声を上げて下さい。
7.内部障害者のバリアフリー
しかしながら前述のように障害特性は多種多様です。
同じ障害者でも症状や条件が違うバリアなのです。
内部障害者については、
とても難しく医師でなければそれを断定できませんが、
私達のような臓器移植の出来る障害者にとっては、
臓器移植という形でバリアフリーを得る事が
出来るものと思います。
しかし、そのバリアフリーがなかなか出来ないのが、
現在の日本です。
数年前に臓器移植法の改正がありました。
それまでは、臓器移植というと
外国に行って数千万円の金額を用意して行うものでした。
しかし外国でも同じ病気で
臓器移植をしなければいけない人が沢山います。
数年前に医療の国際会議で、
臓器移植は基本的にその国の中で
臓器を調達して移植を行うことと決まりました。
その時日本では国会議員を巻き込んで
臓器移植に賛成反対の大変な騒ぎでした。
私も改正の大会やら運動に参加して
国会議員達に陳情をしました。
国会で長い時間審議されて平成22年7月に
ようやく臓器移植法が改正されました。
今までできなかった小児の移植が
出来るようになったり、脳死の扱いの
議論もされて患者の遺族の承諾が有れば
今迄はかなり難しかった問題も
解決できるようになりました。
しかし、臓器移植の件数はなかなか増えないのが現状です。
まだまだ十分ではありません。
今でも機会あるたびに関係団体や医師の団体が
メディア等を通じて国民に訴えています。
もう少し国民の理解を得たいからです。
助かる命を助けたいとの思いで皆さん頑張っています。
臓器移植についての国民の理解が進み、
移植の例が多くなると
違った効果も出てきます。
それは医療費の削減です。
現在国の医療費は、
2011年度では38.5兆円と言う
莫大な金額で国の予算を脅かしています。
私も腎移植患者会の活動で、
いろんな医師とお会いする機会があり、
お話を伺っています。
その中で私の主治医の
北里大学病院吉田先生達や
阪大の医学系研究科の田倉先生始め
多くの先生方が腎移植の有効性や
経済性の研究をしています。
移植をすることによって
その後の費用削減が出来ます。
その費用を他に振り向けることが
できるということです。
話を戻しますが、
障害に関する話は、
その障害者が個人的に声をあげることも大事です。
関係団体なり機関に
相談することも良いと思います。
昔みたいに役所は木で鼻をくくったような対応はしません。
各地にある社会福祉事務所は、
親切にいろいろ参考意見を述べてくれます。
今後どのように進むのかはそれぞれの障害によって
違うので、関係病院や福祉事務所等で
相談できるようになって、少しでも
障害者が快適な生活が送れるように、
個々の声が反映されるようになれば良いと
思います。
8.私の活動
私も腎移植してから今年の10月で10数年になります。
腎不全(透析生活)の状態から現在を考えると、
世の中が180度転換したような生活(いろんな制限が無くなりました。
水分も充分取れるようになり、排尿も充分過ぎる位できるようになりました。
毎日感謝するばかりです。
この老人は、現在通っている北里大学病院の腎移植患者会
(会員90名)で世話役をしております(※今年退かれる予定と伺っています)。
この会は「なごみの会」と申しまして、
患者とその家族、医師を含めた医療スタッフが交流し、
悩みの相談、情報の交換やイベントを企画しながら
親睦を深めてゆく会です。
その中に我々役員が
「サロンDEなごみ」と称して
毎月第二日曜日の午前中に
病院のコーヒーショップの一角でお茶を飲みながら、
会員や腎移植待機患者の皆さんの心配事とか
医師に聞けないことの相談などについて話を聞いています。
例えば、移植を希望している患者夫婦の場合は、
「医療費がどの位するのか」
「検査はどんな事をやるのか」等です。
会員の場合は、
親御さんが「腎移植した娘が
来年大学を卒業するが障害者としての就職は厳しく、
どのようにすればよいか」等の相談を受けました。
それぞれ相談者が納得されるように
我々が親身になって答えて、
後日お礼の言葉を頂いたことが何回もありました。
また会報誌(20頁)を年二回発行していて
会員90名と待機患者約300名に配布して
患者に対しての励ましと情報の提供を主としてやっています。
しかし会報誌の発行は、思いのほか大変で
原稿集めも至難の業です。
先生方や人脈を使って原稿依頼をしながら作りすが、
締め切りまでに原稿が集まらず、結局は自分で原稿を書く羽目となり、
ひ~こら言いながら発行しています。
それでも、読んで頂いた患者さんから
楽しみにしていますと、声がかかると
馬鹿だからまたその気になります。
臓器提供意思表示カードを
市の行事で沢山人の集まる春の桜祭りで
毎年約一万枚医療スタッフと会員で
手分けして配り、臓器移植の啓蒙に努めています。
更に、これは個人的なボランテァですが、
私が昨年暮れまで男声合唱団でバリトンを担当しており
演奏会や各地の第九で歌っていました。
その関係でカラオケ仲間が沢山いて、その仲間と一緒に
老人ホームに慰問に行って歌を唄って励ましています。
老人が老人の為に何かやっている姿可笑しいですか?
でも動ける内は病人ばかりでなく、
何らかを必要としている人の励みになればいいと思ってやっています。
9. 島本昌浩さんの父上・隆之さんとの出会い
今から47年前に島本昌浩さんのお父様の隆之さんと仕事上、
知り合いました。
同年齢ということで気が合い、
公私共に友達としてお互い励まし合いながら
仕事に邁進していた訳です。
私の4男坊が野球をしていて、
私もそのチームのコーチをしていました。
可愛い坊やの昌浩さんが小学校6年生の夏に、
坊主を連れて甲子園で島本さんと一緒に
夏の高校野球の観戦をしたのが、
私生活での付き合いの始めでした。
一緒に大きな声で応援した記憶があります。
徳島池田高校の蔦監督の野球を見たのが記念になりました。
そんな訳で島本家とのつながりが出来たのでした。
10. 昌浩さんのこと
島本家も順調な生活をされていました。
昌浩さんが大学を卒業されて
これから持ち前の探究心と粘り強さで
活躍するはずだった矢先に勤務先で倒れられたとの連絡を受け、
ショックでした。
ご家族のご心配は、相当なものであったと感じました。
期待していた男の子ですから。
その後長期に渡り、
療養生活で懸命なリハビリをしながら、
自活する為に各種の試験に挑戦していることもお話し下さり、
頑張っている姿を常に伝えて下さいました。
並大抵ではない努力と苦労をされて、
行政書士の試験に合格、
念願の自分の事務所を開設されたということを聞きました(※2018年廃業の判断をしました)。
ご本人の並々ならぬ努力もありましたが、
それを支えられたご両親や肉親の愛と
医療スタッフの支えがあったからこそと思います。
その後昌浩さんは、仕事をされる中で
自分が障害者であるということを強く認識され、
自分と同じ環境にある人達が、
快適な生活を送れるようになるには
どのようなことをやればいいのか、
具体的に考え、講演など積極的に活動をされているところです。
メールマガジン、ブログなどで情報発信されて、
我々障害者の参考になることやご自分のプライベートのこと等
共感を呼ぶ読み物を常に書かれています。
私も楽しく読ませて頂いています。(※この情報発信の形も大きく変化し、
現在はこのブログ「by the challenged」、
メールマガジン「challenged-view」、Facebookに整理されています。
チャレンジドとして、大きく羽ばたいて
成果を上げて頂きたいと思っています。
11. 昌浩さんへの応援
私の希望は、昌浩さんには、
先ずご自分の健康を第一に考えて
仕事を充分こなしてもらい、
そして自分が本格的にやろうとしていることを
悔いのないようにやって欲しいということです。
私も年ですからそんなに活動的にはなれませんが、
首都圏で起きていることや新しい情報があれば
メールでお知らせする位のことは出来ると思っています。
また一つ活動を実践して行く上で大切なことは、
自分を理解してくれる仲間を増やすことです。
例えば食堂や飲み屋の主人でも、
市会議員でも、社会福祉の名目で活動をお願いすれば、
喜んでやってくれるはずです。
レストランや飲み屋の入り口やテーブルやトイレを
少し改善することによって障害者でも自由に入れるような
気楽な店にして頂ければ、お客も増えること間違いなしです。
店の好感度も上がるというものです。
それには商工会議所とか商店街のお歴々に交渉する必要も出て来ますね。
活動範囲は、広ければ負担が大きく
途中で挫折する率が高いものです。
ですが、昌浩さんがおやりになろうとしている
このバリアフリーチャレンジ!は、
いろんな形で協力者も現れると思いますし、
実践されます。
実績を作ることが大事と思います。
実績の積み重ねが活動を大きくします。
どうか「誰もが暮らしやすい世の中の実現」
にご尽力されることを期待しております。
腎臓移植者として表面上の障害の形は違っていても
身体障害者として共通の思いがあります。
今回拙文ながら筆をとり、
昌浩さん自身が不自由の中、
同じ障害者に対する思いやりやら障害者の未来を
切り開こうとする行動に敬意を表するものであります。
私が今回寄稿した理由は、
昌浩さんが「チャレンジドとして生きる!」
の長編回顧録に書かれている、
『ハンディキャップのある人でも豊かに暮らしていける世の中を目指して活動します』
という文言に非常に共感を覚えたからです。