違いを認め合い歩み寄ることで多様性のある社会を創っていける

1.手話を学ぼうと思ったきっかけ

大人になってから何か新たなことを学ぶのは、
余暇に趣味としてやるか
何か必要に駆られてと言う場合かと思います。

私が新たに手話を学んだきっかけは後者です。

活動する中でSNSを通じて数人の聴覚障害者と
ご縁を頂き、
メールインタビューをしました。

メールだけでは限界を感じたので、
対面でできる手話の必要性を感じました。

2年くらい前から手話を学べるテレビ番組
を見るようになったもののそれだけでは不十分でした。

本格的に学ぶきっかけが

この記事のインタビューです。

人形劇招致の実行委員長となり、
地元のろうあ協会や
手話サークルの協力を得るには、
自分が手話を学んで相手のフィールドに飛び込まないと
説得力がないと考え、昨年から市の手話講座に通い、
体系的に手話を学び続け、先月中級講座が終わり、
一段落したところです。

週に1回の講座に通い続けることには労力を
要しましたが、通って良かったと思っています。

ただ、使い続けないと元の木阿弥です。

普段の生活で手話を使う機会を
確保するように努めています。

 

2.片手しか使えない肢体不自由者が教室にいたことの意義

講座の講師は聞こえないろう者の先生と聴者の手話通訳士の先生の
お二人が務められました。

ところで、私には左半身麻痺の障害があるので車椅子で受講していました。
車椅子受講者は私だけです。

また、基本的に手話は両手を使いますが、
片手が使えない以上、片手のみにならざるを得ない。
これも私だけ。

完全な少数派として教室にいましたが、
これが他の受講者にとっては
良かったようです。

手話通訳の先生が最後の授業で
名前を挙げて、「今回のクラスは島本さんがいてくれて良かった。
彼のような人と普段一緒に過ごす事ってないけど、
彼がいたことで皆さんはどんな感じなのか
という一端を感じることができたと思います」
とおっしゃってくださったのです。

私はセミナーなどに行くと、
必ず質問をするタイプでこの講座でも質問魔でした。

インタビューやイベント開催を通じて独りよがりにならず、
他の人にも役立つ質問を、という感覚はあります。

ですので、知っておいて損はないはずの
「今の表現を片手でやるとどうなりますか?」
ということを結構確認しました。

「片手でも手話はできるし、通じるから」
と過去にインタビューした聴覚障害者にも
言われていましたが、
前述の質問を続けたことでそれは確信に変わり、
どんどん表現できるようになっていきました。

何でも電話を受けながら、
手話通訳する場面では片手でされているそうで、
片手はないものとして表現しても問題ないと言われ、
気が楽になりました。

また、手話は文法に表情も含まれるので、
その点を意識して、喜怒哀楽を表すことで
それだけで通じる場面はあると分かり、
そこに片手がない分の力を注ぎました。

毎回ペアになって練習して、
前で発表するのですが、
この表情で結構笑いを取ることにも成功しました(笑)。

このような私とろう者の先生という二人の異なる種類の障害者の姿から
肢体不自由者の生活と聴覚障害者の生活を
健常者の受講者の皆さんは感じられたと
思います。

3.手話の勉強に挑戦したことで拡がった可能性

表情が大切であり、手の動きを読み取ってコミュニケーションするのが
手話という言語です。
つまり、視覚が極めて重要であり、そこが音声言語たる
日本語との大きな違い。

相手が使う言語を知るというのは、相手の文化を
知ることと同義だと思います。

私自身はこうした違いから聴覚障害者と
社会の中でどのようにコミュニケーションをとれば、
スムーズかを学べました。

視覚的要素の重要性を学んだことには別の効用がありました。

普段の聞こえる人とのコミュニケーションにおいても
以前より音声以外の
自分や相手の表情、視線の動きなどを気にかけるようになり、
コミュニケーションが豊かになったと感じています。

更に、手話の習得に挑戦したことで自分の可能性も感じました。

私は人前で話すことがそれなりにあって、
目立つのは好きなので
講座で毎回ある発表を楽しみにしていました。

ただ、これまで表現が苦手だった非言語の部分を
手話で表現するのに最初の方は抵抗がありました。

それにも慣れ、人前で何かするのに
怖いものがほぼなくなりました。

恥はかいた方がより勉強になると
講座を通じて感じたくらいです。

これは例えば、今後私が外国語を学ぶ機会があれば
とても強いと思います。

留学経験のある友人から
日本人は恥ずかしいと気にしすぎて
上達が遅れるところがあると聞いたことが
あるからです。

今後も様々な場に車椅子で出ていき、違いを感じてもらい、
こうすれば一緒にできますと自らが媒体となり、
発信していきます。

また、私自身も違いを知り、
それはそれとして認め、
どうすれば歩み寄れるかを工夫していきます。