インタビュー実施日:2018年11月24日
鉄腕アトムを生んだ手塚治虫ゆかりの街、宝塚ということで名付けられたセンターの愛称「あとむ」
タイトルはその愛称にちなんだキャッチフレーズだと私が利用者として初めて相談に伺った際、竹内さんは教えてくれました。竹内さんのお人柄にも通じるところがあると感じたインタビューでした。
―「あとむ」宝塚市障害者就業・生活支援センターの所長をされていますが、
あとむの役割と竹内さんご自身所長としてどのようなお仕事をされているかを教えて頂きたいと思います。
まず、あとむ全体の役割からお願いします。
(竹内)
名称にあるように就業と生活ということで 従来、障害者の支援というのは
島本さんも通っておられた能力開発校系のものが多かったんですね。
ですので しっかり技術、スキルを身につけて会社に入ってと。
ただ、入った後のことまでは あまり考えが及んでいなかった。
あとは自分でがんばってねということですよね。
福祉サイドからすると、そういった企業での就労に関しては
昔はあまり関心がなく それよりも企業に入れないような人たちの生活だとか仕事だとか
っていうことを充実させましょうっていう流れだったんですよね。
そうではなくて 障害のある人も地域で暮らしながら働く
企業で働くっていうことは実際には出来ることだし、実際にしてはるわけですよね。
ーはい。
(竹内)
入った後 どう支え続けるか、
応援し続けるかが課題だよねって
気がついた人たちが福祉業界にたくさん出てきてるんですね。
―具体的にはどういう人たちでしょうか?
(竹内)
当時は通勤寮という福祉施設があったんですね。
寮です。グループホームみたいなもんですね。
2年の期限付きで入って、昼間は働きに行く。
晩は寮に帰ってきて寮で自活の生活が出来る練習もして
2年後に独立していくという。
―2年限定の制度だったんですね。
(竹内)
そうです。どんどん人が入れ替わっていく、
そういうものが昔はあったんですよね。
―昔っていうのは何年ぐらい前の話ですか?
(竹内)
最後まであったのはいつ頃だろう…
僕がこの仕事についた頃にはまだあったんで。
15、6年前ぐらいまではあったんかな。
はっきりいつなくなったかは
ちょとわかんないんです。
―無くなったということは
あまり芳しい成果は上げられなかった?
(竹内)
そうではなくて 法律が大きく変わった影響です。
それまでは社会福祉関係の法体系は 障害種別ごとに〇〇支援法 △△支援法
っていうのがあったんですけど その種別が取っ払われて、基本理念を定めた障害者基本法が出来て
その後 障害者自立支援法~障害者総合支援法へという改正の流れですね。
の通勤寮というのがまだ存在していた時代、
この過程で旧来のいろんな制度をいったん整理して、
新しいものに作り替えていくということがあったんですよね。
で、障害者の就労をサポートをするのが能力開発校ぐらいしかなかったと。
でも、そうじゃなくて 実際にはいろんな働く場面があるし、
重度の人たちも働ける場所というのが本当はいっぱいあるはずだっていう。
実際にいろんなところに就職されていたわけなんですけどね。
―うん。
(竹内)
でも、能力開発校というのは やっぱり決められたカリキュラムで決められた訓練があって
就職ということになるじゃないですか。
それだけだと 潜在的には働ける人がもっといっぱいいるのに
限られた人しか就職できないっていうことになってしまう。
―う~ん。
(竹内)
企業サイドもいろんな人たちがいろんな場面でもっともっと働けるんだ
っていう風に考えてなかったわけです。
いろんな場所に多様な働き方、仕事があって
障害者にもいろんな人たちがいて
そうした人たちがそれぞれいろんなところで働けるはずだ
もっと働けるようなサポートが要る。
能力開発校とは違う場所が必要ではないかっていう声をあげた人たちが
一部ですけど福祉の人たちの中にいたんですよね。
―うん。
(竹内)
その人たちの声を聴いて 当時の厚生省、現在の厚生労働省ですけど、
福祉と労働関係のことが一緒に考えられるようになったのとちょうどリンクするような形になって。
法律が変わる少し前に、サポートがあればそうやって働ける障害者もいっぱいいるんだ、
働けるんだっていうことを実際の現場の中で考えられるように、
就業と生活の両面を支援しながら企業へ送り込んでいく。
企業に入った後も当時そういう言葉はなかったですけど、
今で言う「定着支援」、働き続けられるようなサポート、支援
をやり続けるそういう機能を持ったものが必要だということで。
―制度改革の中で?
(竹内)
これが実は制度改革の前のことなんです。
そういう声がもうあがっていて
テスト的にやりましょうってことになったんです。
平成14年が確かモデル事業スタートだったと思うんですけど
当時はまだ全国に10か所。実際どんなふうに機能していくものなのかということを検証しつつ
障害者就業・生活支援センターが出来るほんの少し前に、
それとリンクする形で就労移行支援というのが出来て、
いろんなところでバックアップしていくというのが大きな流れ。
国のモデル事業がスタートして、制度化されて、
その直後ぐらいの平成17年に宝塚ではできました。
複数の市町村をまたいで支援センターを1か所作るというのが国の制度設計だったんです。
でも、宝塚は、阪神間という人口の集中しているエリアにあり、
もし複数の市町村をまたいで1か所しかないとなると、
人口が多いわけですから なかなかセンターに辿り着けない。
辿り着いたとしてもたくさんの人が来る それでは支援が手薄になる。
だから、身近なところに、宝塚市民を対象としたセンターがあるっていうことは
とてもいいわけですよね。
―あとむは宝塚市独自の動きとして 設立された?
(竹内)
そういうことです。
その背景には僕たちが所属している宝塚さざんか福祉会という社会福祉法人があって、
知的障害がある人たちのバックアップをしてきたという経過もあったので、「国ではこういう事業がスタートしてます」
ということやこの阪神間の実情等を話して、だったら宝塚市では身近なところに支援機関があって
っていうことがいいよねってことで 作ろうということになって。
―現在、就労・生活支援センターの運用というのは、
各市町村ごとに一つはあると私は理解しているんですけど。
(竹内)
いや、阪神間だけなんです、それ。
全国的にみたら、このエリアのような所はむしろ珍しいんです。
―関西に広げても?
(竹内)
ないです。
―なぜ、阪神間だけが強いというか
そういう形になったのでしょうか?
(竹内)
宝塚市がセンターを作ったんで
他の市町村が真似て作ったんです。
宝塚が最初に出来て その次に出来たのは確か三田だったと思います。
で、尼崎とか西宮には最後まで出来なかったんですよ。
―意外です。
(竹内)
というのは、さっきも言ったように 国の事業があるじゃないかと。
―うん。
(竹内)
だから、阪神間に国の事業をどこか1か所でやれば、
それでいいじゃないかというのが尼崎とか西宮市の考え方だったんですよ。
だけど、宝塚はいち早く、いやそれじゃ支援機関がないのと同じになるからと作った。
つまり、制度上、全国的にみたら、複数の市町村をまたいで1ヶ所なんですよ。
―じゃ 大阪とかもそんな感じなんですか?
(竹内)
大阪市は、人口規模が違うじゃないですか。
―はい。
(竹内)
大阪市中心だけで
いくつか複数の区がありますよね。
区をまたいでブランチ組織を作って。
―サテライトみたいな?
(竹内)
ですね。あっちはそういう形です。
神戸も今はそうしてますね。
政令指定都市になると
そういうことがある程度は出来る。
―うん。
(竹内)
だけど、宝塚市は人口23万ぐらいの規模の都市で市独自の機関を、
当時多分日本で一番最初に設置したんじゃないかと言われているぐらいです。
―結構先進的な取り組みだったんですね。
(竹内)
そうなんです。
さっきも言ったように働いていくっていうことと生活するっていうことの
両方をしっかり支えていく。
それから相談に来た個々人の就労と生活を支えるっていうだけじゃなくて
支援拠点としての役割というものもある。
各行政機関、障害福祉をはじめ、商工勤労とか
子どもさんのケースであれば、教育委員会とかそういう所も全部含めて。
あと、保健所 ハローワーク それから県の出先機関、
我々の様な民間の福祉事業所をネットワークで繋いで
就労に向けた地域の生活支援拠点の役割
も担うっていう大きな任務と役割をもってスタートさせているんです。
―竹内さんご自身は設立段階から関わっていたんですか?
(竹内)
僕は単なる一サラリーマンで
そういう構想はうちの法人の上層部が考えて。
で うちはセンターを作りましょうってなった時に
じゃ、スタッフとしておまえ行けと。
私は単なる人事異動でここへ来たわけです。
その時はまだ支援ワーカーっていうか平の職員でした。
―それから経験が長くなって所長に?
(竹内)
そうです。だから、最初は本当に就労支援のしゅの字も知らない。
例えば、履歴書の書き方や求人票の見方、面接の受け方だとか
自分自身1回ぐらいしかしたことがない。
―(笑)
(竹内)
誰かに教えてあげる こういうコツがありますよとか、
そういうことをお伝え出来るようなレベルでは全くなかったんです。
ですので、「私にはそういうのは向いていません」と、上層部に断ったぐらいです。
もう一つ断った理由があって、
それは自分がそれまで20年ほど知的障害者の施設で働いていて、
就職したけどやっぱりしんどくなっちゃって、心療内科に通ってお薬飲まないと
安定しないくらいまで状態が悪くなって施設に帰ってくる人たちを見てたんです。
障害者が働くって大変だなって。
知的障害者が施設を出て働くってホント大変。
だから僕としては賛成していなかったというか。
そんなに簡単に働けないよっと思ってたんで。
こういうセンターを作り、就職者をどんどん出していくっていうことについて
最初はとっても懐疑的だったというかね。
―そうだったんですね。
(竹内)
当時の上司に、お前はそう言って一人ぼっちで困っている、
働く場に出て行って困っている人たちをほったらかしにするのか?
また同じように、施設に戻らなきゃならないっていうそんな人をほっとくのか?
そういうことが起こらないように、一人ぼっちで困っている人をなくすために
身近なところにあるセンターとして、こういうものが必要だ
っていうことでつくろうって言っているのに
お前はそこで働けないのか?って言われて。
―ぐうの音も出なかった?
(竹内)
ですよね。ぐうの音も出ない。
助けてくれる人がいなかったから、一人で困って
本当に苦しんで調子を崩す人が出たんじゃないのかと言われるわけですよね。
だからそういう人を一人でもなくせと。
―そこで言われたことに関しては なるほどそうだなぁと?
(竹内)
反論なしでしたね。じゃあがんばろうと。
自分は微力ですけど一人でもそういう人が減ればいいなと。
―今お話を伺っている中で ここでのお仕事の前に、
知的障害の方の支援をされていたという話がありました。
(竹内)
はい。
―ということは、キャリアとしては最初から福祉分野で働かれていたんですか?
(竹内)
そうですね 20年ぐらい知的障害の人たちの施設で働いていました。
だから、センターになった時にそれこそいろんな方が来られるんで、
他の障害の種別のことを全然知らなかった。
例えば、今でこそ発達障害と言えば 大体どんなものかとか、
お会いしたら もしかしたらっていうのを感じるくらいになりました。
でも、当時は何もわからなかったです。
じゃ、どこでそういうものがわかるのかとかね。
またどういう特徴があるのかとかね。
―はい。
(竹内)
そういうこともだし、難病のことだとかもちろんよく知らなかったです。
それにさっきも言ったように履歴書も自分が就職する時に書いたくらい。
―あとむの前職の就職時に?
(竹内)
そうそうそう。だから、何の手立てもない状況だったので、
まずは求職側の視点とかそういうのを学んでいくところからのスタートでした。
中高年向けの履歴書の書き方セミナーみたいなのに…。
―行ってたんですか!?
(竹内)
行きまくってました。最前列で講師の話を聞いて
そうかそうか!これは使えるみたいなメモして(笑)。
―話が前後しますが、最初はなぜ知的障害者を支援する仕事を選ばれたんですか?
(竹内)
それを聞かれると本当に恥ずかしい。
―ええ!?
(竹内)
元々大学に行く時に、会社勤めのサラリーマンにはなりたくないなとは思っていて、
そういうサラリーマンになるための勉強をする学科じゃない所に行きました。
―ちなみに何学科?
(竹内)
これ載せないでください(笑)←※冗談でしたので掲載しますw
僕 龍谷大学の仏教学科に行ってたんです。
―ああ。
(竹内)
元々人はなぜ生きているのかとか。
―そういう哲学的なことを学びたいと。
(竹内)
そうですね。そういう勉強をしたいなと思って行ったんです。
龍谷は西本願寺の流派ですけど、私は仏教徒ではないです。
そんな信仰があったわけじゃないんですけど。哲学的なこととして。
―求道者みたいな感じで?
(竹内)
そうですね。
で 大学へ行って学校の先生になりたいなと思うようになったんです。
―へぇ。
(竹内)
社会科の先生になりたいなっていうのがあったので、教員免許を取るための授業とかとってたんです。
―そのチャレンジはされた?
(竹内)
もちろん。しましたけどダメだったと。
でも、サラリーマンになりたくねぇなぁって思ってたので。
卒業して1年ぐらいは就職活動もたいしてせず
今でいうニート状態。
―アルバイトはされていたのでは?
(竹内)
アルバイトはね。キャンプ場で管理人やったりとかね。
―キャンプ場の管理人?
(竹内)
大学時代にキャンプ場で子どもたちを集めてリーダーをやっていたので。
そういうこと。
―元々子供が好き?
(竹内)
そうなんです。そういうことなんです。
それで教師になりたかったというのはありますよね。
でも、結局 俺には教師は無理だなって。
だからといって会社で働きたくなくって
たまたま何かこういう募集があるよって。
ああそうなんだみたいな。
で、何となく受けてみようかっていう
すごいやりたいと思っていたわけじゃなかったんですけど。
ところが、入ってみたら、教師と通じるところもあったし、
教師よりももっとその人の人生に深く関わるなぁっていうか。
僕が勤め出したところって成人の人たちの施設だったので関りが長いわけですよ
学校卒業後のね。それこそ何十年とかそういうとこだったので。
これは面白いなと思いました。
―うん。
(竹内)
だから、入ってよかったなとか天職だったのかなとかね。
自分に合ういい仕事があったという気がして。
福祉の勉強してこなかったから 入ってからいろいろ勉強して
面白いこともいっぱいあったし。
―今はどちらかというと就労をメインにすえて、
生活もっていう分野に移られたわけですけども。
昔の直接支援をしていた頃が良かったなと思うこともあるんですか?
(竹内)
20年働いていた中で、いろんなこと学び、いろんな人達と出会った。
もちろんいいこともあったけど、就職から戻ってきた人達もたくさんいた。
それからいろんな障害の人たち 知的という括りだけでもいろんな人たちがいるので
いろんなことがあったし。そりゃ、何ていうんですか
まじめなことばっかりではないです(笑)
いろんなところに行くことにもなったしね。←※ここは掘り下げませんでしたw
それはいい経験だと思うから。
今の仕事の中で何が一番活きてるかっていったら、
そこでいろんな人たちに会って、いろんな取り組みをした中で僕が学んできたこと。
要するに、引き出しの数もその分増えたということは大きいと思いますね。
だから 全くそれまでの仕事が役に立たなかったわけではなかったんですけど、
企業に働きに行くっていうこととか、そのためにどんな練習をしたらいいかとか
面接や履歴書についてとかもっとベースになるようなところでどんなことが大事なのか
っていうことは全然よくわかっていなかったので。
さっき言ったように求職者のセミナーに行ったり、そういう就労支援のところにも行ったし。
それから全国で先進的な取り組みをやっているっていう所が結構あったので、
遠い所だったら泊まりで視察させてもらったり。
―はい。
(竹内)
合宿というか、グループホームで 夜は皆さんと一緒に共同生活をして
昼間は皆さんが働いているところをいろいろと回ったり。
―はい。
(竹内)
各機関が会議をしているところに出させてもらったりとかして。
こういう風にしてネットワークを作っていくんだなとか。
―そうなんですね。
それでいつも電話してもいらっしゃらないんですね(笑)?
(竹内)
そういうことです。(笑)
それで結局 こんな風にしていったらいいんだなということをいっぱい教えてもらって
2年ぐらいたったら、だいたい自分でも考えられるっていう感じにはなりましたね。
―今、あとむで展開されている支援の内容って、
おっしゃった履歴書の書き方とか 面接をどうやって受けるかっていうような
一般のいわゆる就労移行支援事業所でされているようなところと
重複するような部分もあるわけですか?
(竹内)
ありますね。
就労移行とか能力開発校とか直で就職を目指す場に行かないで
就職したいという人がいるので。
―在宅で動いている方ということですか?
(竹内)
とか就労継続支援B型事業所とか、A型とかに通所しながらとかね。
昔はそういうA型とかB型とかみたいなそんなものなかったので
授産施設と言ってましたけど。
そういう所へ通っている人たちは就職へ向けての知識や技術が不足するし、
今障害者職業センターっていう所をうちではよく利用しています。
―はい。
(竹内)
要するに、そこでは自分に合った、向いている仕事について検査をしてくれます。
職場で働く上でこういうことが必要ですよっていうことが知れたり。
今のあなたにはこれが足りていない。逆に、これは十分できている
みたいなことのアドバイスをいろいろしてくれる機関も昔からあるんですけど、
そういうことがわかってきてますから、そういう所で検査してもらったり アドバイスをしてもらったりとかして、
それを要するに強化していくっていうかねそういうことをしてるんです。
だから あとむでそういうプログラムとか何か職業の適性検査をするという風なことはしてないんですよ。
―内部ではやってないけども そういうことをしている所とのネットワークがあるから。
(竹内)
そうなんです。
―橋渡しというかそういうことが出来るという。
(竹内)
そうなんです。だから、「餅は餅屋」の発想です。
そこにお任せをする。そういう所にうまく繋いでいく。
で、どういう風に今練習が進んでいるかとかそういうことは情報を共有していく。
で、その後の生活面で困ったことがあるってなったら、ウチがヘルパーを派遣するとかは
してないので、そういうサポートをやっている所につないで、また情報を共有して、
その人が働き続けられるようにしていく。
そういう為には医療機関との情報共有とか連携とかっていうのは不可欠ですし、
福祉サービスをいろいろ提供している事業所 今だったら相談支援事業所もそうですし、その大元の障害福祉課もそう。
いろんな所といろんな繋がりをもっていないと うちのセンターの仕事がほぼ成り立たないですね。
―地域にいる障害者からしたら、最初の入口がどこになるかわからないですけども、
あとむと繋がった人に関しては あとむが入口としてサービスの提供を受ける為の拠点になるみたいな。
(竹内)
部分的にはね。コーディネートですね。
さっきも言ったように その人一人一人を勿論支えてはいますけど、福祉制度とか社会福祉サービスの向上についても
僕たちは思っているので、宝塚市、県、国を含めてですけど いろんなところに要望というかね
こういうことが必要なんじゃないかという風なことをどんどん意見としてあげていく。
宝塚のセンターとして厚生労働省にに直接ものを言うってことはない訳ですけど、
全国の僕たちと同じような就業・生活支援センター事業をやっている所とみんな束になっているわけですよね。
そういう所とも団体ネットワークがあるので そういう所を通じて
こういうことを言っていこうよ、ああいうことを言っていこうよということですけどね。
実際制度についてはよくなっている部分もあるし。
ただ、国は費用対効果っていうのをやはりよく言うので。
どこでもそうですけども 成果主義になっていて、何人以上就職者を出していたらご褒美で予算を増やしますねと。
それに到達していなかったら減らします。ひどかったら事業はさせませんよみたいな。
そんなようなことになってしまってるんで。
だから国の事業のセンターの人たちっていうのは、
結果や数字をどうしても追っかけてしまう。
だけど われわれ市の事業は一応目標数というのは設定はされてますけど、
極端な話でいえば 就職者ゼロでも多くの方を就福祉事業やらそういう所へ繋いで、
ご本人さんが活躍していただけるという実績事案をあげていけば、
僕らの事業がなくなるということは別にないと思いますね。
勿論、その中で幸運にも就職される方は出てきますしね。
―うん。
(竹内)
結果的に数はついてくるっていうかね。
―最初に登録っていう 手続きがありましたけど、
登録の段階で何か条件っていうのはありましたっけ?
(竹内)
はい。義務教育を修了していること。
―15歳以上。
(竹内)
はい。上の年齢は特に設けてないんですけど。
でも65歳を過ぎると なかなか就職先っていうのは見つけにくい。
障害者求人でも70歳でもいいですよとか65歳でもいいですよってのは ほとんどないので。
一般的な定年の65歳未満が上限になると。
(竹内)
ですね。ですから使えるサービスも限られてくるので企業での就労は厳しいですよっていう話。
だから登録は、義務教育が済んでる人ですが、親御さんの相談は受けてるんです。
例えば、今は一般の中学の 特別支援学級にいます。
この先どんな社会資源があるのか あと数年すれば 高校卒業して18歳にもなって
20歳にもなってって すぐ来るわけですから。
じゃあ、その時に社会資源を使うには どんな手続きがいるのかとか
またあとむの登録はどういうタイミングでしたらいいのかとか
そういった親御さんの相談っていうのは本人さんの年齢関係なく受けてるんです。
で 小学校5年生のお子さんを持ってる親御さんの相談っていうのを受けたのが
今までで一番若かったケースで今でも継続してるわけですよね。
実際あったことですけど、久しぶりにあとむに行っていろいろ教えてもらって参考になりました
なんていう話を聞くと嬉しいんですよね。
―その親御さんが来てて、お子さんが小学生だとかっていう場合は登録にはならないんですか?
(竹内)
ならないんです。
―本人の意思が確認できない?
それももあるし、義務教育期間中は もう学校の責任なんで。
―年齢以外での何か条件は 何もないんですか?
(竹内)
年齢以外では宝塚市在住であること。
―それ以外で 就労の意欲があるかとかっていうのは見てないんですか?
(竹内)
あんまり見てないです。
だから極端な話とてもじゃないけど就職は怖くてできません。経験があって、働いた経験があっても、
もう二度と行きたくないですっていう人で、定期的にうちに面談には来てる人もいるんです。
―へぇ。
(竹内)
それは何故かっていうと うちに来なくなったら 社会との接点がなくなるというか。
―ああ、そうか。
(竹内)
そういうこともあるから 僕たちは拒まないんです。
今働きたいですか?って言ったら いや もう働きたくないんですって。
じゃあもううちでは登録できないですとか お断りしますとは言ってないです。
―どっかででこのあとむっていう存在を知って来る人はいいですけど。
(竹内)
うん。
―潜在的に このサービスは役に立つけども繋がれずに来られない人もいるじゃないですか。
(竹内)
うん。
―そういうところに積極的にアプローチとかってするんですか?
(竹内)
僕たちの方から 動くことは個別にはないですね。
―個別にはないというのは何か違う機会が?
(竹内)
そうですね。っていうのは 例えば市の広報に載ることがあったりね。
それからいろんなイベントで僕が話をしたり。
それから全然違う分野のところから呼ばれることがあるんですけど。
前にあったのは不登校の方の家族の会で ちょっとお話をさしてもらったりとか。
―へぇ。
(竹内)
他には、介護保険の事業所さんの集まりで就労のこと話してっていうオーダーがあったりとか。
―介護保険で就労?
(竹内)
結局 当事者さんは介護保険対象高齢者でも、お家に働いてない我が子がいるみたいな
そういうご家庭っていうのは結構あります。
―さっき不登校の話がありましたけども。
(竹内)
はい。
―障害がない人も対象に入るんですか?
(竹内)
ええ。うちの場合は障害があるとかないとか 診断書がある、ないとか
一切 問いません。
―そうなんですね。じゃあ、看板に「障害者」就労・生活ってありますけど
厳密には就労生活支援センターって言った方がいいってことですか?
(竹内)
ご本人さんが「利用に抵抗がなければ どうぞ」という風なスタンスなので。
―はあ。
(竹内)
一応メインは障害者という形にはしてますけど。
―メインは障害者というのは、もう制度的に そこをやってないと?
(竹内)
ということなんです(苦笑)。どなたでもいいどなたでも就労や生活のお手伝いをしますよというセンターではないんです。
うちは障害がある方っていうのをメインにしてますよということが。
―そこはちゃんと 制度があって。事業として成り立つという。
(竹内)
そういうこと、そういうこと。 ただ来られる方は、
どんな方でも拒まないといういうスタンス。
―なるほど。
(竹内)
だから極端な話で言ったら、ウチから医療機関で検査してもらって 様々な検査したけど
障害はないねって。病気もないねって言われていても、
うちに定期的に来て、話している人もいます。
―福祉業界という中に入るんでしょうけども、
なかなか異色の存在って感じですね。
(竹内)
そうなんです。だからこれがね 宝塚市単独の事業だから 割と柔軟にできるところですね。
お仕事のこと等なんらかの事で 困ってる市民の方の応援やサポートができますよっていう
これはいいところですよね。
これは国の事業になるとそうはいかないんです。
手帳のない方は、ちょっと手帳取ってから来てくださいとかね。
今働きたいと思ってないんだって言うんだったら 働きたいと思うようになってから来てください
とかやっぱそういうことにどうしてもなるね。
うちの場合だったら じゃあ働きたいなと思うような気になれるように付き合うねっていうことができるという。
―結構自由なスタンスですね。
(竹内)
そうなんですよ だから、相談に来られた方が どう見ても、今就職無理だよな
というのが僕たちの中で見立てとしてあっても そういうジャッジをウチがするな
ってうちのスタッフにいつも言ってるんです。
だから年数経って僕たちと関りがあって年数経ったら だんだん変わってくはずだし、
変わっていくように僕たちも働きかけをしたり、関わっていかなきゃいけない。
だから長い方だったら7年とか8年とかかかって就職とか 3、4年とか5年の方ざらにいますんで。
―7、8年経って実際に就職されたっていう事例も?
(竹内)
あります あります。
―へぇ。
(竹内)
その方なんかは まず親御さんが来て うちの息子引きこもってますと。
大学卒業して もう10年くらい引きこもってますと。
そしたらもう35ぐらいですよね。
ご本人さん ここへ来られませんと。じゃあ親御さんとまずお話しましょうみたいに様子聞いて。
そのうち一度 来れたらいいですねって言ったら来るようになってっていうことで。
親御さんが最初に来てから ご本人さん就職するまでに7年かかった。
―市の独自事業として、やってるということであれば 就職者数が仮に伸びたとしても、
そんなに事業としての収入規模は変わらない?
変わらないんですよ。(笑)何人決まろうが変わらないですよ(笑)。
ただね そうですね 初年度から2年後だったか3年後だったかにちょっと増えて、
それから全然ずっと増えてなかったんですけど、今年の予算は久しぶりにちょっと増えましたね
増やしてもらいましたね。
―何故に。
(竹内)
それはもう最近の我々の活動量が他の例えば近所のエリアのセンターの
もう数倍になってるからですね。
―それをちゃんと認めてもらえたっていう。
(竹内)
ということですね もちろん、うちもこのままじゃパンクしますよ、
という働きかけはしてたんでね。
ワーカーも一人増えた 今年はね。
―今何人いらっしゃるんですか?
(竹内)
今支援ワーカーはは私入れて5人でやってます。
私所長ですけど、現場の人間なんで。
―ですよね。
(竹内)
僕が一番 担当ケース数も多いし。
―ちなみに 何ケースぐらい?
(竹内)
さあカウントしてないけど、なんぼでしょうね。
そうですね 現在動いてる人 動いてるっていうか 継続している人っていうことでいけば
4、50人はいますかね。
担当者数で言えば、半分くらい僕がほとんど最初インテイクしてっていうか。
島本さんのように就職しました。その場合、半年はフォローアップは絶対しますねっていうことで。
お話させてもらってて 月1回ぐらい来ていただく。
人によったら2、3週ですけど、だいたい1か月に1回。
で半年経って いやもう少し 1年くらいはって言われたら じゃあ1年は毎月みたいに。
―僕は月1回は来ないと思います。
(竹内)
そうですね。 たぶんお電話で済むと思います。
ただ話聞いて欲しいみたいな人もいるんで。
―聞いてると 関わっている人がすごく多様なので 利用してる側も スタンスが様々だと思います。
僕はもう基本的に情報提供して頂くという。
(竹内)
うん。
―そういう形で使わせて頂いています。
(竹内)
で 島本さんの場合は 自分で行政書士されてたから、
例えば労働法規に関してもまったく無知じゃないじゃないですか。
―はい。
(竹内)
人によったら 自分は働いてるけど 労働基準法で どんなふうに守られてるのかとか
最低賃金法でどう守られているのかとかよくご存知でない方もおられるじゃないですか。
―うん。
(竹内)
だいたい 失業っていうか退職になったら何をしたらいいのかとかね。
全然わかんないっていう人も いっぱいいるのでそういうことはフォローする。
―うん。
(竹内)
前に1回 ご本人さんから朝電話があって、
今会社の前なんですけど 紙が貼ってあって倒産したって書いてあるみたいなね。
で飛んで行ったら、あららほんとだと。で だいたい あれってほら
その後何があるかって言ったら、働いてる人たちにお金がほんとに後返してもらえるのかね?
っていうとこじゃないですか。
―未払い賃金ですね。
(竹内)
そうです そうです それの請求どないなのかとかね。
で あれって結局 倒産したら会社に管財人さんが付いて。
―はい。
(竹内)
整理するじゃないですか。裁判所が出てくるわけですよね。
そんなん本人さんたち わかんないじゃないですか。
―うん。
(竹内)
付いてくわけですよ。その方が知的とかだったら、
なんの話されてるかわからないでしょ。
―そうですね。
(竹内)
だから ほんとは僕ら入れないんですけど そういう所入れさしてくれと裁判所に言って、
裁判官が特別に認めますって言ってもらったら入って。ほいで僕らメモして。
で 後日本人さんにこういうことだったよと説明するみたいなね。
場合によったらそうそういうこともしてますから。一人暮らし始めたいって言ったら、
不動産屋一緒に行って、物件一緒に見たり、そういうこともしたりしてますしね。
で 長期間仕事が見つからないって言うんだったら 生活保護にもなるでしょ。
なら、生活保護の方へつないでとかしてますし。
年齢が上の人たちだったら そういうこともあるし、
下の人たちだったら学校へかけ合いに行くとか。
―今まで登録して 電話でやりとりしてるだけでは わかんなかったいろんなことが知れて
個人的にはめちゃくちゃ面白いです。
最後に将来的な話として 制度とか良くなってきてる部分もあるっていうお話もありましたけども。
(竹内)
はい。
―今後、組織として将来こんなことをしていきたいとか
竹内さん個人として何かこういうことをしたいって いうようなビジョンがあればお願いします。
(竹内)
僕個人としては ないですね。
―ん?ない?
(竹内)
うん。っていうのは こんな言い方したらほんと身も蓋もないんですけど。
僕は一サラリーマンなので 定年っていうのは来ますから そしたら。
―今おいくつ?
今58歳。定年60なので、あと2年で辞めるかどうかっていうのは再雇用もあるのでまた別ですけどね 。
でも僕個人として なんかっていうビジョンっていうのは特にないです。
―定年後になんかこういうことをするみたいに考えてたりはしていない?
(竹内)
ないです。
―今のところノープラン?
(竹内)
ノープランです。
ただ自分が現場で走り続けている間は、こんな風なにしたい
こんな風になったらいいなっていう思いはもう山ほどあるので。
例えば障害者雇用が進んでいるとは言っても、大方半数くらいは就労継続支援A型事業所なんですね。
ほんとの企業就労になってない。法定雇用率が引き上げられ、求人数も増えてると。
だから求めている会社が増えているというのは当然ある。
じゃあどこの会社もすごく受け入れがいいのかとか。
本当に障害のある人に対しての配慮をしつつ 一同僚として大事に見てくれて、その人が定年まで働けるように
ちゃんと一緒にがんばってくれるような会社がたくさんあるのかっていうと残念ながらそうでないことも多い。
それから障害者だからということがそれだけで最低賃金でフルタイムでパートでって
将来全然将来設計立たないじゃない、そんな求人が平気で出てる。
やっぱりそれは世の中もっと変えてかなきゃなというか 変わってほしいなっていうか。
―うん。
だから僕は偉そうですけど 事あるごとにそういうことは叫んでますね。
―それは企業に対して実際に言ってるんですか?
(竹内)
企業にもにも言ってますし、ハローワークにも言ってます。
それからいろんなセミナーや研修行ったら そういう行政が主催しているような研修行くと そういうこと言ってます。
それから例えばハローワーク関係の兵庫労働局ね それから兵庫県ね。
今年精神障害者の雇用が義務化されて、雇用率引き上げられたと言ってるのに、
未だに身体障害者しか採りませんっていうスタンスなんですね。
兵庫県とか労働局。
そんなこともまだまかり通っているわけですよね 僕はそれをやっぱりこの仕事やってる以上 こらおかしいでしょって。
年齢不問、経験不問なのに障害だけ不問じゃないですなんて 何それって。仕事できる人いっぱいいるんだから、
もっとちゃんと受け入れてよって それから障害があるから仕事できない。だから給料安いんだって
それもおかしいでしょってそんなことないし。
―受け入れる側がそこで 身体だけとかっていうのは何でやと思います?
(竹内)
今はそれは法律で枠内で 会社の都合で認められてるからですよね。
そういう自分のところがどういう人材が欲しいのかっていうとこまでは任されてるから。
ほんとはそうじゃないはずなんですけどね。
企業側が何故言うのかっていうのは 一つは身体障害の場合、他に配慮しなきゃいけない点とか
難しいこと言われなくて済むとかそういうことだとは思いますけど。
ーやっぱり精神障害者をまだ雇い入れた実績っていうのはなくって
わかんないっていうところで足踏みしてるっていうのであれば ちゃんと知ってもらえば。
(竹内)
いいじゃないってことですよね。
―僕が知っているだけでも優秀な人はいっぱいいます。
(竹内)
いますよってことですね で 会社に対してそういう説明をしないといけない兵庫労働局やハローワークが
身体障害者しか採ってないってどういうことよって。矛盾してませんか?っていうことですよね。
―ハローワークということは厚生労働省。
(竹内)
そうですよ。
兵庫県もそうです。兵庫県だって啓発 啓蒙する側の立場なわけですよ。
―うん。
(竹内)
職業対策課とかそういうところがちゃんとあるのにそういうことしてるでしょ。
これどうなんですか?っていうことですよね。
―それをとしてどんどん訴えていくということですね。
(竹内)
センターを代表してますから。うちの看板背負って、一支援者というよりも宝塚市就業・生活支援センターとしては
こう考えてますっていうことですよね。そういうことの意味合いもあります。
ー先ほどおっしゃっていた横の繋がりで、数の力があった方が 当然 声も大きくなるという意味で連帯していくということ。
(竹内)
ですよね。
それから僕たちも限界があるんですけど、例えば、保健所さんからこの間も紹介ケースで統合失調症で長い間在宅状態で外に出にくいんです。
でも、その方が何か仕事したい、働きたいっておっしゃってるんです。
何か知恵貸してもらえませんかってことがあった。保健所さんでは何も知恵が無いわけですよ それに対しての。
―うん。
でハローワークに相談しても家から出られないんじゃねぇってことになるじゃないですか。
―うん。
けど、僕らの所だったら在宅就労っていう道も有りますよね。
で それも企業でなくても在宅就労やってる所あるので そういう所を紹介させてもらって。
で ご本人さんにしたら稼げるようになったらいいよねって。意欲出ますし、元気も出ますよね。
それが僕たちの大事な役割だと思ってて。
就職者数としてはカウントされないけど、その方がそういう社会資源と繋がって意味のある活動、
生産活動に参加してまだ福祉サービスですから 最低賃金までいかないですけど
自分でお金を稼げるようになったら、大きいですよね。
そういうことの役割を僕たちは担っていると思ってるんで。
―はい。
(竹内)
企業に何人入れたというのは問題ではないと思います。
だからこそ拠点としてというか 色んな機関と繋がって。
―うん。
そういうことを丁寧にやってれば いろんな機関が信用もしてくれるし、そういう自分の所では難しいっていうケースで
僕たちが出来ることで結果を出してるっていう。
―うん。
(竹内)
実は僕をこのセンターに任命した上司から
俺たちの仕事は実証する。実際にそこで証明するっていう結果が、
プロセスも勿論ですけど、結果が大事なことなんやって。机上の空論でこんなことができららいいよね ってそれは誰でも言える。
だけど、それを現場の中でどうやって実現さすのか実証するのかっていうことにこだわれ
と教えられたんですよ。
―はい。
(竹内」)
だからそのことはすごく僕の中でもずっとテーマでもある。
―実践ということで そういう意味ではよく現場に足を運ばれているわけですよね。
(竹内)
まぁ そうですよね。
ーよくわかりました。
※以下「オフレコでいいと思うけど」、として語られた
私のケースについての話です。この活動では当然公開します。
(竹内)
例えば島本さんのケースうちのセンターじゃなかったら、
多分引き受けたかどうかよくわからないですよ。
―え?
(竹内)
働けるかなーって僕も最初思いましたもん。
家から出れるか?大丈夫か?って。
―ああ。最初、僕どうやって来てましたっけ?
(竹内)
電動車いすで来てはりましたよ。
で、経歴聞いたらね。働き始めてすぐに病気になってって。
(竹内)
で、今はおいくつですか?って聞いたら40歳だったでしょ? 確か。
41歳だったっけ?42歳だったけ?
―いや、今40歳なので、来た時は39歳です(笑)。
(竹内)
だから20年ぐらいブランクあった訳でしょ?
「いやぁ、大丈夫?」って みんな思うと思いますよ。
僕も思いましたしね。
じゃあ どこまで島本さんが働きたいと思ってはるのかとか。
どんな風なことだったら出来るのか?とかっていうのは最初はわからないですもんね。
―うん。
(竹内)
で、お話聞いてちょっとこれやってみます?と聞いたら、
「それやってみます」って言ってすぐにやられたし。
で、実際に立てたプランの通り、最初はA型入ったじゃないですか。
―うん。
(竹内)
よしよし ですよね。
わはは(笑)。
よしよし。じゃぁ、次の目標に向けて。
で 能力開発校入ったじゃないですか。よしよし。
じゃ、あとは就職だよねって。
よしよし がんばろう がんばろうって。
―僕の場合は 本当に画に描いた通りに行きましたよね。
(竹内)
うん、そうなんです。