みなさんは「夢」を持っていますか?

なんか、このフレーズの先に怪しい宗教やスピリチュアルな予感がしなくもないが…。
そうではない。実は何を隠そう、いや隠してはいないが
私にはずっと「手話通訳士になりたい」という夢があった。

「ある」ではなく「あった」という過去形にしたのは、
もし生まれ変わることがあれば、次の人生に持ち越すことを決めたからだ。
これは相当な覚悟がいる事だった。

夢のはじまり

私がこの夢をもったのは今から20年ほど前、
息子が幼稚園に入園した時のママ友が耳が聞こえない人だった。
初めての聞こえないママ友
手話を教えてもらってから手話通訳ができるようになりたいと思い、
「手話通訳士」が私の夢となった。
初めて手話を教えてもらったとき、手話の成り立ちの話がとても興味深く、
ママ友たちと集まってワイワイ学び、一気に手話の虜になった
子育て中ということもあり、しばらく勉強することから遠ざかっていた私は
何かを学ぶということとがとても楽しかった

そして学び進めていくうちに、手話の成り立ちや言語としての興味深さのほかに、
コミュニケーションをする、意思疎通をするとはどういうことなのか
探求していくことが難しくもあり、楽しくて仕方なくなった。

すぐに市の手話講座を探したがその当時は夜の部しかなかった。
子供たちを家においていくわけにもいかず、泣く泣く断念。
手話サークルも通ってみたが、娘に何かの障害があるかもしれない
と分かりかけたころで、娘を連れての活動は難しく、通うのを辞めてしまった。
それからは「井戸端手話の会」やカルチャーセンターや聞こえないママ友に育てられて
学べるところで少しずつ学んでいった。

手話に育てられて

私は小さい頃、いろいろな理由で親や大人を信用していない時期があった。
社会全体に不満を持っていて、漫画「ホットロード」に憧れ悪いことをいろいろした。
多分、アラフィフ世代には懐かしの漫画ではないだろうか。
2014年に映画化されているので知っている人も多いと思うが、
本当にあの世界に自分を重ねて「誰からも愛されてない」
と思い続けていた。そんな状況だったので人を信用していなかったし、
人と真剣に向き合ってコミュニケーションすることがなかった
今では「のほほん」と天然キャラで
いろいろなコミュニティとつながっている私からは想像できないかもしれない。

手話通訳をするとき、また手話で会話するとき、
いつも自分の知識が試されているような気がするし、
コミュニケーションを曖昧にしていてはいけないと気づかされることが多い。
そして、聞こえない人にはその曖昧さや真剣さが見抜かれてしまうような気がする。
今まで人と真剣に向き合ってこなかった自分は手話を通して
聞こえない人たちや先輩の通訳さんから学んだことがたくさんあり、
自分を成長させてくれたと思って感謝している。

そんな私を成長させてくれる手話のある環境は、
新しい人や世界との繋がりをもたらし、
手話講座に通わなくても心が折れることなく、
ずっと自分なりの学びを続け、手話通訳士になりたい
という夢を持ち続けることができた。

そして今から7年前、やっと市の手話講座に
昼の部が開講され通うことになった。
手話講座に通えることが本当に嬉しかった
昼間に活動できる主婦層が20人以上も集まり、
手話通訳を目指す仲間がこんなにもいることにワクワクした。
手話教材がDVDだったので

「ポータブルDVDプレイヤー」をミスドに持ち込み、
仲間と顔を寄せ合って予習した朝活~、
理不尽に怒る講師に「むかつく」ポーズをこっそり表現しあった夏の日~、
初めてなりきったロールプレーのウエディングプランナー…
卒業式に涙しながら「転んでも頑張った運動会」「運動会!」


と呼びかけ合うように、たくさんの思い出がよみがえってくる濃密な講座だった。

手話奉仕員養成講座を2年間、
手話通訳者養成講座を3年間通い「手話通訳者全国統一試験」を受けて合格し、
市や県の手話通訳者として働くことを目指していた。
その後、手話通訳士の試験「手話通訳技能認定試験」を受けるつもりでいた。
将来、働くことの意義について悩んでいた息子に
「お母さん、手話通訳士になって働くからね。」と言ったら、
「今から働く気なの?」とびっくりされたし、
手話講座に通っていると知人に告げると「まだ勉強するんだ。」
と驚かれることもあった。
娘にも「障害者雇用で働き始めたら、お母さんも一緒に働くね。」
と言って、二人でワクワクする将来を描いていた

それが、手話講座4年目の終了間際に「卵巣がん」となり、
通うことができなくなった。
そのころはまだ治ると思っていたので、
治療がうまくいったら、
次の5年目の講座から再スタートしようと思っていた。

初入院時の日記にはこうある。

この日の治療のメインは、「腹水を抜く」こと。
もう一つのミッションは、「手話講座の補講」

血液検査をし、麻酔。注射の針を刺し、腹水を抜いていく。
「2〜3時間ぐらいですね」と15時から始まった。
15時から3時間かかっても18時には終わるから晩御飯を食べながらでも補講には間に合う!

ちょうど手話通訳養成講座Ⅱの終盤、あと数回のところで通えなくなった。
今年12月には統一試験を受けて手話通訳の道に進むはずだった。
大神宮で合格お守りまで買い過去問題を攻め倒していた。
18年間の思い残念とか悔しいなどの言葉では表せない
でも、最後まで可能性はゼロではない
今日の17〜21時までに補講を視聴し、レポートを書けば、
今回の講座の修了証がもらえるよう担当者が手配してくれた。

コロナ禍でオンライン対応ができるように予め準備されていたよう。
ありがたい

腹水よ!早く抜けろ!早く終われ!!

WiFiカードを買い、
パスワードも準備、
イヤホンもオッケー。

使い過ぎて、ありえない場所から裂けた手話辞典 表紙には自分を励ます「大丈夫!きっとうまくいくよ」 のシール「順調に抜けてますよ〜もう1リットル」
そこからが長かった…
「まだまだ抜けてます」
水の袋は何度も取り替えられ…
窓の外はどんどん暗くなり…
終わったのは消灯時間21時のちょっと手前。
「5リットルも抜けましたよ」
と嬉しそうな看護師さんの声と私の落胆の心の声
「視聴できなかった…」

 

夢のつづき

翌日に抗がん剤を控えた中、腹水穿刺後に手話講座の補講をオンラインで受けて
次の講座に進もうとしていたのだ。そしてそれが叶わなかった。
それから数か月後、手術をし、一度は治るかと思われた病気も
再発し、治ることはないと主治医に告げられた。

3週間に1度の抗がん剤をしながら、体力の続く限り手話通訳士にチャレンジするのか?
抗がん剤のケモブレインという頭が真っ白になってしまう症状と闘いながらでも、
手話通訳をするのか?悩み続ける日々だった。手話サークルや、手話講座のメンバーは、
復帰するのを待ってる!」とずっと励ましの言葉をかけ、私が戻ってくると信じ続けていた。
やってやれないことは無い、やりたいことは全部やる!というチャレンジ精神だけはあったが、
気持ちだけではどうしようもないこともある

思い切って、夢を「諦める」のではなく、
「次の人生に持ち越し」と言ってみた。
気持ちがすっきりした。
そしたら、「手話通訳はやれなくても大西さんにしかできないことがあるはず。」
と言ってくれる人がいた。本当に嬉しかった。
最初は20名以上いた手話講座の仲間も
最後の統一試験に合格したのは数名だけだった。
いろいろな理由でみんな辞めていった。
私はそんな「いろいろな理由」で辞めていった人たちと
同じにはされたくなかった。
「諦めた」わけでもなく「辞めた」のでもなく、
「次の人生に持ち越し」たのだ。
そして、今やれることをやることに決めたのだ。
病気で「夢」を失ったのではく、
病気で「夢を持ち越し」にしたのだ。
言葉だけの問題で気休めだと思うかもしれないが、
自分で納得する落としどころを見つけたかった

使い過ぎて、ありえない場所から裂けた手話辞典 表紙には自分を励ます「大丈夫!きっとうまくいくよ」 のシール

こころのままに

病気になって、できないことが一つ、また一つと増えていき、
体調の変化とともに絶望感が襲ってくる。もうどうしようもない事実である。
そんな中で自分の夢を「次の人生に持ち越し」て、
今の体の状態に合わせて人生設計を軌道修正している感じである。

死ぬのか、死なないのか、先の見通しが立たず、
抗がん剤頼りで中途半端に元気に生きているのが今の状態。

もう、どっちかにしてくれ~と思うこともあるが、
人生勝手に終えることもできないし、
かといって生きようと思って治療しているため、
今すぐには死なないのが現実!

もう、こうなったら、とにかく声を出して笑って、
悲しいときは泣いて、やる気のある時は行動して、
ないときはダラダラして、
前向きになれないときは泣いてたっていいし、
調子のいいときはおしゃれして出かける。
なんだかんだと、
いつもの日常じゃん、ね!

こないだ「こんな元気にしていて死ぬ気がしないんですが…」
と緩和ケア医に聞いてみた。
元気な時期から、ゆっくり弱っていくのではなく急激にきますから…と。

急激にくるまでは、とにかく「こころのままに!」。
鬼滅の刃の炭治郎のベタ中のベタな言葉だが、
妙に刺さりながら、娘と一緒にこころのままに過ごす日常で行こうと思う。

2022.5.12